眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

サイレント・ハウス 感想

夏のホラー映画まつり、第3夜。

監督は、クリス・ケンティスとローラ・ラウ。2011年のアメリカ映画。

出演
エリザベス・オルセン(サラ)
アダム・トレーズ(ジョン/サラの父)
エリック・シェファー・スティーヴンス(ピーター/サラの叔父)
ジュリア・テイラー・ロス(ソフィア)

あらすじ
湖畔の別荘に、父親と共に帰ってきたサラ。修繕した上で売却することになった別荘内には、自分たち以外誰もいないはずだったが、物音がしたり、人の気配がする。また、サラの旧友だという女性が訪ねて来るが、記憶が覚束ない。どうも様子がおかしい…。

以下、結末に触れています。


感想
オリジナルは、ウルグアイの「SHOT」という作品。ワンカット撮影が話題になったというのだが、寡聞にして知らず。リメイク版もそれを踏襲して、ワンカットで85分(クレジットを除けば80分強)を見せ切っている。ただ、映画としてそれが面白いのかというと…。

この作品を、夫婦で共同監督という珍しいコンビ、ケンティス=ラウが撮るというのは、夫婦間のあれやこれやをビデオ撮りで延々見せられる「オープン・ウォーター」からの流れの上ではなるほど、撮ってしかるべしという感じもある。ドキュメント風の演出と、(形の上では)ワンカット80分の演出という違いはあっても、フェイク映画としての面白さは共通している。本来なら、自分たちでカメラも廻したいところだろうが、さすがに技術的な部分で自分たちではまかなえないと判断してか、今回はイゴール・マルティノビッチが撮影を担当している。

映画は必然的に段取り重視となり、撮影の手間や、俳優たちの芝居や、彼らに対する演出の指示など、大変神経を使うものになっただろうと想像する。それだけで敢闘賞を進呈したいくらいである。実際には80分ワンカットではなく、途中でうまく繋いでいる(特に、サラが外に逃げ出して走る辺りが、かなりごまかされている感じはあった)とは思うのだが、シームレスな見せ方はうまく、不自然さを感じさせない。次第に暮れていく外の様子を取り込んでいるところなども、調整が難しいと思うのだが、これも自然だった。加えて、邸宅と周辺のロケーションも悪くなく、あまりにも寂しい佇まいであり、こういう風景こそ、ホラー映画には相応しいと思える。

が、ワンカットであることの弱みがあって、どうしても間延びしてしまうということ。緊迫感や緊張感は、リアルタイムであるからと言って盛り上がるわけではないということが、如実に示される結果となっている。行ったり来たりを繰り返すしかない邸内の移動では、如何せん次第に飽きが来てしまうのである。エリザベス・オルセンはかなりの熱演なのだが、彼女の演技をもってしても、80分ワンカットという構造上の瑕瑾はカバー出来ていない。

また、80分ワンカットというリアルタイムから生じる緊張感も、実はそれほど意味がない。80分でなければならない理由が、この物語には別にないからだ。何も80分以内にすべてを完了せねなければならない物語ではない。数日に分けて描いていいし、そうすれば主人公のサラの心情にももっと寄り添うことが出来ただろうし、変態兄弟の鬼畜ぶりももっと描き込めただろう。映画としての厚みはずっと増したはずである。が、この映画は、それを短い時間でワンカットで見せ切ることで、観客がサラの視点で彼女の恐怖を同時に体感するというところの面白みが全て。が、いわゆるPOV映画は世の中にすでに沢山あって、特に新鮮味があるものでもない。…と思っていたのだが、ワンカット80分がもたらす、今までに感じたことのない感覚を味わえたのは意外だった。

この映画の中でサラが体験するのは、「正体不明の何者かに襲われ、そこから逃れようとするうちに、押し隠していた過去の記憶が立ち現れて、あげくに2人の人間を殺す」というものである。封じ込めていた記憶が甦って、精神的に混乱した人物が、父と叔父の2人の肉親を殺してしまうという様子を、リアルタイムで見せられるというのは、冷静になってみれば相当異常な事態である。それが、たったの80分以内に起きてしまうのである。80分なんて、ちょっと出かけて本屋で軽く立ち読みでもすれば、あっという間に過ぎてしまう。1時間のバラエティ番組をみたあとにコーヒーでも淹れて、猫の背中を撫でていたら、あっという間に過ぎてしまう。体感時間として、決して長いものではない。日常生活の中の、ごく短時間である。にもかかわらず、その中で平凡な日常を壊す、激しい変転が起きることの恐怖。サラに殺意が生じてから実際に殺すまでがリアルタイムであることの、あまりの密度の濃さにめまいがする。それは、世界中の事件当事者にとってのリアルタイムを、この映画を通して身近に感じられるということであり、その立場(加害者であろうと被害者であろうと)にもしも自分がなったら…と想像するとき、そこに立ちあがる臨場感はなかなかに不快なものとなる。サラの心情に寄り添えるかどうかは、もはや問題ではなく、否応なくその渦に巻き込まれてしまったときの恐怖と嫌悪だけが、そこには残るのだ。

サラが叔父との間に、さりげなく距離を取ろうとしているのも、気持ち悪かった。叔父さんはピーターという名前だが、サラは彼を決して「ピーター」とは呼ばない。「アンクル・ピーター」と呼ぶ。どんなに緊迫した状況でも。そのあたりの距離感が、最初から怪しくて気持ち悪かったのだが、案の定というやつである。あと、昔の友人だというソフィアや、幼い少女、見るからに怪しげな不気味な男…といったものは、サラの別人格であったり、少女の自分であったりするのだろう。不気味な男は、父と叔父のメタファーと思っていたが、もしかして助けに来てくれる理想の父親だったのだろうか…。だとしたら切ない。

ホラー映画としては、やるべきことをちゃんとやっているので、それなりに怖がれるだろうし、事件の真相も人によっては意外な結末にもなっているだろう。が、それ以上の不快さが、実はあることに目を向けたい。サラが肉親に虐待されていたという内容の陰惨さも含めて、リアルタイムであることで刻まれる嫌悪感が、ざらりとした後味を残す映画だったと記憶に留めておきたい。…となると、オリジナルが既にそういう映画だったということにもなるのか。そちらも、そのうち見ないといけませんな。

エリザベス・オルセンの主演作では、「マーサ、あるいはマーシー・メイ」の感想も書いていた。「マーサ」のあとすぐに「サイレント・ハウス」の公開だったんだな。共に2011年製作の映画が、偶然にも2013年に続けて、しかも同じ配給会社ならまだしも、違う配給会社から公開になるというのも不思議な偶然ですな。

なんとブルーレイは未発売。おそらく出ることはないだろうな。