眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「スプリット」 感想

脚本・監督/M・ナイト・シャマラン

友人の誕生日パーティーの帰り、ケイシー、クレア、マルシアの3人は、謎の男によって連れ去られてしまう。監禁された3人は、脱出するための手立てを考えるが…。
それぞれ味付けは違うが、去年だと「ルーム」「クローバーフィールド・レーン」なども監禁ものだった。「スプリット」もざっくりとジャンル分けすると同じところに入れることが出来る。事前情報として仕入れていたのは、ジェームズ・マカヴォイが多重人格者ということだけ。あとは何も知らないままに見たのだが、頭のおかしい人間に監禁される映画ということが判った途端に、またこういう映画か、とがっかりしてしまった。が、映画が進むにつれ、そうであってもそうではないことが判ってくるのだが…。

監禁サスペンスを構成する要素としては、どんな犯人なのか、監禁の目的、監禁場所、脱出方法…といった辺りが重要になるだろうか。予算のある映画は、警察や関係者による捜索にも時間が割かれるが、この作品にはそこまでの広がりはない。シンプルでタイトな映画である。が、そもそもシャマランの映画はどれもそういうものだ。スケールが大きくなっても描いていることの核心は、半径5メートル圏内の問題、という感じがする。他者や世界ではなく、自分と家族の物語に収束していくというか。

以下、ネタバレ前提の文章を書いています。

この作品の場合は、犯人がどんな人物か、ということに最も力が注がれている。23の人格を持つ男…という設定は、その点でなんとも興味をそそられるものである。演じるのはジェームズ・マカヴォイなので、あれこれと色んなパターンの芝居を見せてくれる。でも、一旦画面袖に引っ込んだあと、きちんと着替えてから再び姿を現す別人格の描写は、どんなにシリアスであってもコントのような可笑しみを生み、複雑な思いにさせられたのだが、そういえばシャマランは、人が戸惑うような微妙なユーモアを挟む人だったことも思い出すのであった。ただ、人格が23もあることが、物語にどう絡んでくるのかという愉しみはそれほどのことはなく、重要な役割を担うのはそのうち、デニス、パトリシア、ヘドウィグ、バリー、ケヴィン…といったところ。フレッチャー先生(ベティ・バックリー)に緊急のメールを送っていた人物は、バリーでもケヴィンでもなく、また別の人格だったりすることがクライマックスで判ったりもするが、それとて、あまり重要なこととしては描かれておらず、せっかくの設定を生かし切れていないという印象は残った。それよりもテーマとして描きたいことは、トラウマをどうやってやり過ごすか、あるいは受け入れるかという問題であり、娯楽映画としては、もっとシンプルで一直線なサスペンスへの志向だと思われる。

トラウマを巡る物語とは、元々の肉体と精神の主であったケヴィンの過去と、ケイシーの幼い頃の記憶、に関するもの。ケイシーがやたらと服を重ね着していること、デニスは女性が裸で踊るところを見たがり、そのために理由を付けて服を脱がしていくこと、やがてケイシーの服の下の体が見えるようになるとき、何があったのかを明確に物語る、その見せ方は非常に巧みだった。一方、彼女が父親と叔父と鹿狩りに行った時の記憶は、断片的に描かれていく。叔父が姪を誘う場面の気味の悪さ。脅しをかけてくる陰湿さ、それに対するケイシーの憎悪。何故彼女は、学校で問題行動を起こすのか。起こせば、一人になれる。それはすなわち、家に帰らないで済む…ということだったのであろうこと。ヘドウィグの部屋には、絵に描いた窓しかなかったと判る場面での彼女には、脱出出来ない絶望と共に、身動きの取れない自分の生活も重なっているはず。その先ではケヴィンの過去も明かされることにより、トラウマを強烈に意識させられて引きずり回されることになる。それらがひとつになっていくところに、ストーリーテリングのうまさが光る。ミステリ映画ではないが、ケイシーが何を考えている、どういう少女なのかが明かされていく様子には、きちんとした描写が前もってなされていて、それがクライマックスで結実するように作られている。こういった丁寧な作劇ぶりは、もっと褒められていいのではないか。加えて、ケイシーにとっての真の敵は、ビーストではない、というところも苦みが効いている。両者には共通するトラウマがあり、その途端にお互いを相憐れむような感覚すら生まれている。この赦しの感覚が彼らに与えたものは、勇気をもって自分の決断を実行するというミッション。片方は叔父との関係に向かっての決断、片方は不純な者たちへの鉄槌という形で。正反対でありながらも、共にトラウマを乗り越える。希望と絶望が同時に観客にのしかかる。

精神は肉体にも変化を及ぼす、という展開を眺めていて、まず思い出すのは「ブラック・スワン」だった。あれは、妄想とも現実ともつかぬように進んでいくのだが、妄想の極限では黒鳥になっていく。肉体の変化がなされるかどうか、という映画ではないので、現実ではそうはならないが、「スピリット」はそうなっていく映画なのだった。24番目の人格として、ビーストが出現し、夜の街を彼が疾走していく場面だが、ここで思い出したのは「アルタード・ステーツ」だった。原始人化していく主人公の姿を、走るビーストに重ねてしまう。そして「アルタード・ステーツ」が、結局狼男と大して変わらないと言われたように、狼人間の映画も思い出させる。超能力が、もしも本当にあるとするのならば、それは精神的な不具合から生じた何かがもたらすのではないか、というフレッチャー先生の意見と合わせ、これはまた別の方向からみた狼人間の映画なのではないか…。そしてこのとき、空を飛ぶとか火を噴くとかではない、現実的な能力に少しプラスしたくらいの能力の微妙さ(壁をよじ登るとか、鉄格子をちょっと曲げるとか)、あの映画と似ているな…、と思っていたのだ。それがまさか的中するとは。あの映画を見ている人だけが驚ける、予想外のラストシーン。本当にびっくりした。若い人なんて、もう見てないだろうし、見ている観客の大半が忘れているのではないかとも思うのだが…。

俳優で素晴らしいのは、主演のマカヴォイ…ではなくて、アニヤ・テイラー=ジョイだった。

黒髪も似合っているし、物憂げな表情もいい。窮地に陥っても状況を冷静に判断し、脱出法を探るサバイヴ能力。役柄と彼女の容姿とが合致して、はかなげで孤独な闘いにドラマがうまれている。フィクションの中でこそ映えるタイプの女優さんかも。今21歳なので、顔や体系もまだ変わるだろうし、この作品での雰囲気は、ここだけのものになるかもしれない。インタビュー映像をみると、当たり前だが作品内とは違い、普通の女の子なので。そう思えば、あの儚さは貴重なものかもしれない、と思う。若いうちの一時期だけにしか出せない表情、というのがあるんですよ。あとの二人の女子、ジェシカ・スーラとヘイリー・ルー・リチャードソンも悪くなし。患者に対して理解をしめすベティ・バックリーもよし。結果的には失敗するが、探偵役としては、なかなかかっこよかった。あと、普通の俳優のように、シャマラン本人が出演しているのも久々でうれしい。

「ヴィジット」の製作費は、約500万ドルだったが、「スプリット」は、900万ドルほど。しかし、こじんまりとした低予算の映画なのは、見た目にも明らかで前作とさして変わらない。製作費が上がっているのは、マカヴォイ(と他の俳優たち)の出演料だったのではないか?と思うくらいだが、それでこの特大のヒットなのだから、相当な儲けが出ていることになる。頭のいい人は、お金儲けの方法を知っているということだろうか。またシャマランの映画というと、「どんでん返し」とか「衝撃の結末」とか、クライマックスの驚きがいまだに宣伝で大きく言われてしまうが、今回の作品には、もうそんな要素はない。いい加減、そこから離れないと誰も幸福になれない。お金儲けにもつながらないと思いますね。