眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

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監督は山下敦弘全共闘運動が後退していく中で、その波よりも先にいた男とそれに乗り遅れた男、時代の波に寄り添えなかった者同士が出会い、自分たちにとっての幻の青春を手に入れようしてそれが果たせず挫折していく。アメリカン・ニューシネマが再現されるような苦さと破滅の空気がなかなかよろしく、退屈せず最後まで観られた。

最初っから薄っぺらな人間であることが描写されている松山ケンイチの、本当の姿を見せない(というか本当の姿なんて存在しないところが映画の登場人物としては痛い魅力を放つ)似非カリスマぶりが見事。『真夜中のカーボーイ』のダスティン・ホフマンと自分を重ねるところがあるが、そこだけが彼の本心が垣間見える瞬間だったのではないか。ホフマンの「アイムスケアード」の台詞から、自分も行動するときは怖いですよとかなんとか言っているが、ホフマンはそんなことを怖いと言ったんじゃないだろう。死が恐ろしい、何もない自分が、何物にもなれない自分が恐ろしい、悲しい、そういう叫びではなかったか。それが自分と重なったのではないのか。常に偽りの言葉を吐いていても、このときだけはその奥に彼の本心があったのではないのか、と思った。

そんな彼を胡散臭いと思いながらも信じて、結局裏切られてしまう妻夫木聡もいい。映画の軸となるのは妻夫木の方で、微妙な感情を抱えながら松山と接触し続ける様子などある種の緊迫感がある。もう一人、重要な存在として週刊東都の表紙モデルを演じる忽那汐里がいる。彼女と妻不木が接する場面には周囲にほとんど人がいない日曜日の編集部であることが、二人の精神的な緊密さを感じさせる。彼女の存在はいわば彼にとっての純粋さの象徴ともいえ、事件後に再会する場面で、彼女にこの一件について否定的な見解を述べられて「なんで信じちゃったんだろうなあ」とつぶやく妻夫木は自分のイノセンスとの決別を強いられているようである。モノローグで彼女は数年後に死んだと語られるが(実際のモデルだった保倉幸恵は22歳で自殺している)、その死はやはり妻夫木のイノセンスの死と密接に結びついたものとして描かれているのではないかと思った。さらにその後ダメ押しのごときラストシーンが待つが、自分の感情がやっと現実に追いついてきたときにあふれ出す涙が苦く悲しい。無様であっても、ちゃんと泣く。良い表情だった。

松山に「優し過ぎる」と言われる妻夫木の姿はそのままセンチメンタルな指向を後に映画評論でも表出させる川本三郎の姿に次第に重なっていく。川本三郎の評論や本を読む人間にとっては映画の内容とは別の部分でシンクロを感じ、不思議な感動を覚えるだろう。俳優陣は誰もが好演だったが、忽那汐里がこんなにいい表情をするとは思っていなかったので驚いた。これは良い女優になる予感。また古舘寛治山内圭哉長塚圭史らも実にすばらしい。山下作品常連の山本浩司、山本剛史の二人の山本も良かった。笑わせる映画じゃないんだけど、剛史のリアクション芝居は相変わらず最高。「同志」といって手を差し出す場面のあの絶妙に失敗したような間は悶絶もの。