眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

4月29日(日)の日記


クレヨンちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』 於:アポロシネマ8

監督は増井壮一、脚本はこぐれ京

ヒマワリ星と地球は兄弟星である。しかし地球ではヒママタ―という星の生命力とでもいうべき成分が極度に減っており、ヒマワリ星から秘かにヒママターが送り込まれていた。このまま地球のヒママターが減り続ければ、ヒマワリ星からの供給も限界に達し、そうすると二つの星は滅亡してしまう。それを救えるのが、実は野原家のひまわりである、ということになるのだが、プリンを食べられたことで腹を立てたしんのすけは、ひまわりを姫として譲り渡す契約書にサインしてしまう。だがひまわりは姫として野原一家とは全く別世界の人になってしまい、自由に会うことも出来なくなる。次に会える面会ツアーは3年後…。最初は別にいいんじゃないの、と思っていたしんのすけも、事の重大さに気付き始める…。という話だ。

ヒマワリ星の人々は悪人ではないし、本来ボスキャラとなるべきはずのサンデー・ゴロネスキーも悪人ではない。ひまわりの存在がなければ、星の滅亡を招く。そのためには残念なことだが、家族が一人欠けてしまうことを我慢してもらわねばならない…。しかも一方的な話ではない。地球も滅亡してしまうのだから。言わば究極の選択というべきものを突きつけられるのだが、野原家としては当然、家族そろって生きて行く方を取ろうとする。それが破滅への一歩だとしてもだ。現実問題として、世界平和のために泣く泣く子どもを手放せるだろうか?手放したとしたら、そのあと残された家族はどういう人生と生活を送ることになるのだろう。観ていて、一体何が正しいのか?と思わざるを得ず、しかもその答えは現実には出せない。映画は全く別のところから双方を救うものが出現し大団円となるが、正直これが映画で良かったと思ったほど。現実問題として直視してしまうとかなりキツイ話となる。しかし作り手にとっても、震災以後、家族が離れ離れになる、という問題を避けて通ることは出来なかったのだろう。悪役の不在は、理不尽なまでの理由で家族を襲う危機にどう立ち向かうか、というテーマを際立たせるためのものだろう。自然災害なんて、誰を非難することも出来ないのだから。

上映時間が、今回はシリーズ最長の110分という長さになっているのだが、その中で野原一家の心情が非常に丁寧に描かれているのが好印象だった。特に、いちご(みたいなもの)を作っている農家の老夫婦と、ひろしとみさえが接する場面、そのあとの、もしかしたらひまわりにとってはこの星で暮らす方が幸せなのかも…と悄然とする様子。その辺のがくっと力の抜けた感じなどは、相反するような、広がる農地の美しさが落ち込みようを妙にリアルに感じさせて、切実な空気を漂わせていた。

ゴロネスキーが、おまえはどこのだれだ?とかなり激しい調子で、しんのすけに問い質すクライマックスも強烈。しんのすけはひまわりの名付け親であり、この物語の中ではそれが生みの親よりも重視されている。名付け親は非常に重要な存在であり、それはまた、結果として二つの星の未来を握る責任をも背負ってしまっているのである。その責任に対することに、子どもであることは関係が無い。二つの星のトップ2人が対峙しているのだから。真っ向から決して手を抜かないゴロネスキーの姿は恐怖であると同時に、彼なりの二つの星の未来への思いがあってのことだ。だからこそ、『地球人、のはらしんのすけ』という答えに、彼は『良い答えだ』と納得する。大きなスケールで物事をとらえているしんのすけの回答には思わず涙が出た。

子ども向け映画としてどうか、ということに関しては、子どもに聞くしかない。子どもたちがつまんなかった、というのならそれはそれで仕方ないことだろう。だが大人は子どもではない。子ども映画としての側面だけではない部分こそを楽しめるのは大人なればこそ。そこをじっくりと愉しみたい。