眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

6月24日(日)の日記


ベルフラワー』 於:テアトル梅田

監督はエヴァン・グローデル(製作・脚本・主演・編集も兼任)。2011年のアメリカ映画。

ポスターアートやチラシのデザインからすると、バイオレントなアクション映画の中にトゥルーなロマンスが炸裂するみたいな感じがするが、そういう映画ではないのが面白い。『マッドマックス』的な要素は、本当に要素の一つでしかなく、この主人公の場合はそうだっただけで、それは人によっては野球やサッカーやゴジラウルトラマンだったりするはずで、確かに無職だし、内省的な部分は一切なく、昼間からビールばかり飲んでいて、どうしようもないダメな人間でしかないこの主人公ではあっても、それらを取り除いてしまうと、残るのは普通の男子の普通の恋愛と失恋でしかない。パッケージは激しく狂おしい愛を謳っていても、中身はじめじめと女々しい、男の恨み節なので、その辺での齟齬が観客にどういう感想をもたらすのかが楽しみな作品でもある。

普通の恋愛→失恋の映画なので、そういう経験のある人間にはとても他人ごとには思えない切実さにあふれており、自暴自棄になっていく主人公・ウッドローにも自然と気持ちが乗ってしまう。マッドマックスのことしか考えていないので、逃避する先はそこにしかなく、必然的に彼をとりまく世界は暴力的なものになっていく。現実なのか妄想なのかが判然としなくなる混沌とした状態は、彼にとってはいわば自身を守る、崩壊を止めるための心の急ブレーキ踏みっぱなし状態で、だけど車は止まれなくてずるずると惰性で走り続ける、そんな危うさと踏みとどまれなさを感じさせる表現として悪くなく、それどころか自身だけでなく、他人の感情まで自分に都合のいいように勝手に作り出していく、失恋に取り憑かれた者の暴走ぶりが滑稽でありつつも、それくらいのことしか出来ない惨めさが爆発して、なんともしょんぼりした気持ちに導かれていく。が、世界を恨んで破滅を望む感情に嫌悪感は抱けず、むしろ微笑ましいと羨ましさすら憶えてしまうのは、実は主人公と共にいる親友の存在の大きさゆえで、こういう人間が傍にいるかいないかでその後の人生は大きく変化するのではないか、と自分の人生を顧みて思ったりするのが、個人的には一番心に迫る部分であった。無償の愛があるのなら、無償の友情もあるはずである。エイデンが(演:タイラー・ドーソン)『おまえだけじゃない』という、親友を思う心からの慰めの言葉が胸を打つ。

この映画の為に自作したというカメラの醸す雰囲気が独特で、70年代映画の画質の荒れた風合いと、トイカメラで撮ったような画面の一部がボケている不思議な画作りがあり、現実と妄想が入り混じる映画の作りを結果として見事に反映させたものになっていて、映画への没入に一役買っている。思いの外、悪くない気持ちで映画館を後にした。

ところで、16日が初日だった東京・シアターN渋谷は、ビール飲み放題イベントを開催し大盛況、イベントのない2日目も午後の回には満席もあった、ということだが、少なくとも大阪の初日一回目は、映画の内容に似つかわしい男の一人客がほとんどで、余裕で座れる状態だった。午後はお客さん入ったのかな。気取ったパッケージと商品解説には大阪の客は簡単には乗らないということなのだろうか。大阪という街は結構保守的で、また完全に花より団子な土地柄なのだ。それが良いところでもあり、悪いところでもあり…それが大阪の限界でもある。


アタック・ザ・ブロック』 於:シネリーブル梅田

脚本・監督はジョー・コーニッシュ。2011年のイギリス映画。

ショーン・オブ・ザ・デッド』や『宇宙人ポール』と同じ製作会社の作品なので、どういう傾向の内容かは判る人には判るだろう。が、笑いに繋がる場面は色々あるが、明快なコメディとしては作られていないので、これまでと比べるとはるかにシリアス。ロンドンの低所得層向け団地が舞台で、必然的に社会に対する疑問や不満が噴き出す瞬間があり、「あのエイリアンは政府が黒人を追い出すために送り込んできたんだ」というものや、「どうして赤十字はアフリカの子供を助けてイギリスの子供は助けないんだ?」というイギリスを取り巻く現状に対する皮肉めいたセリフもあり、映画の眼目はそこにはないけれども、現実を話の隅っこできちんと見据えながら展開させていく辺りは、なかなか今の映画であることを実感させてくれる。娯楽映画にはそれは必要ないと言われればそうかもしれないが、同時代的な意味では重要だと個人的には思っていて、あるのとないのとではやはり作品の厚みも違って見える。ドラマが重層的になるのは決して悪いことではない。

とはいえ、なんといっても映画の本筋は、少年ギャング対エイリアンであり、そのスピード感のあるノンストップな展開こそを何よりも愉しみたいところ。少年ギャングはあくまでも少年なので、使う武器も花火とかナイフとか水鉄砲とか殺傷能力が高いのは刀程度(充分か)、乗り回すのもバイク、スクーター、自転車あたりで、鋭い牙で噛み砕く、毛むくじゃらでゴリラの化け物みたいなエイリアン相手には分の悪い戦いを強いられる。しかも警察にも追われ、勘違いした元締めにも狙われと、散々な状況を囲っての八方塞がり。あっちへ逃げ、こっちへ逃げと、一つの場所に停滞させず次々に移していくテンポの良さも素晴らしく、その一方で、マリファナ売人のニック・フロストは部屋から一歩も出ずにゆうゆうとした存在と芝居でその対比も可笑しく、監督のコーニッシュはこれが長編デビューというがとてもそうは思えない達者さを見せている。

主人公モーゼス(演:ジョン・ボイエガ→不敵な表情がデンゼル・ワシントンそっくり)は、少年ギャングのリーダーだが、映画の冒頭で襲った看護師(演:ジョディ・ウィッテカー)と共に行動する羽目になり、彼女と接するうちに自分たちのやっていること、チンピラまがいの愚かしさに次第に気付き始める。団地の住人から蔑まれ嫌われる彼らが、この騒動の中で何かを見つけて行くのがドラマとしては熱いポイントで、一連のサイモン・ペッグニック・フロスト映画のベースにオタクの成長というテーマがあったように、ここではろくでなし共の成長が描かれ、大きく見ると一貫した流れになっているのは面白い。今回はオタクではなくチンピラとしたところがやはり秀逸で、内輪だけが盛り上がるオタク臭さを排除し、ストレートにサスペンス映画として撮ったことの潔さと志が素晴らしい。オタク映画にすることもきっと可能だったろうが、そうはしなかったところにあるコーニッシュの姿勢を支持したい。