眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「塀の中のジュリアス・シーザー」をみる

シネリーブル梅田で『塀の中のジュリアス・シーザー』を。

一見、ドキュメント風だけど、ドキュメントってどの部分を指しているのか。あの練習風景は何度も練習を重ねているだろうし、カメラ位置の的確さや動きのスムーズさは完全に計算された配置になっている。単に実際の囚人が演じている、というだけのことであって、素人を自作に使う映画監督はたくさんいるだろう。それらと何が違うのか。この作品の囚人たちが演じるのは、あくまで虚構であり、現実ではない。自分自身を演じるわけではなく、リアルなマフィア物語ではない。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』である、というところが何より面白いところだと思う。が、作り手が思った以上に、彼らの実人生が作品と重なってしまい、表情の一つ一つ、目の鈍い輝き、台詞の重み、それらが現実と虚構を次第にひとつのものに溶け合わせ飲みこんでいく。その過程のスリリングさ、しかしそれすらもが演出によるものではないかと見る側に思わせる企みの深さもある。それを巧みに匂わせるのは、別々の部屋で別々に練習しているふたりの場面を繋いで、ドラマとして構築している場面。全く、完全に映画としての構成である。こんなことをしている映画を、単純にドキュメントとは言えなくて、ふたつの世界の融合にこそその面白さがあるのだと言わぬばかり。また、オクタヴィアスに選ばれた若者の遅れた登場。その登場シーン。演技なのか演出なのか。ドキュメントと劇映画の見事な融合…。見方によってはまるで監獄内の抗争を描いたマフィア映画、一方で史劇のような、あるいはベルイマン映画の宗教的な匂いすらもうっすらと勘違いしてしまう。世界と意味が何重にも重ねられているようで、しかもそれが全て透けていて、めまいがする。惑わされる心地よさがある。

そして、その先には芸術への没入がある。監獄という閉じられた現実世界から、芸術という別の(天上の)世界への扉を開く。そして開いてしまったことの喜びと、得てしまったことから絶望を味わわねばならない皮肉。諦念。長く深い沈鬱が滲むラストが心にしみた。それでも現実は続く…。