眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

『ブエノスアイレス恋愛事情』をみる

脚本・監督はグスタボ・タレット。2011年のアルゼンチン=スペイン=ドイツ映画。

ワンダーランド駅で』とか『ターンレフト・ターンライト』とか、身近にいるのになかなか出会えない二人、というシチュエーションは他に例がないわけではない。この作品が特色として挙げられるのは、そこに、ブエノスアイレスという場所を結びつけようとしているところ。人種、文化、色々なものが混じりあい、無秩序な街並みが出来上がってしまったブエノスアイレス。二人が出会うには、街は壁が多過ぎて、先を見通すことが出来ない。自分たちの先の人生も見えてこない。加えて、マルティン(ハビエル・ドロラス)は広場恐怖症マリアナ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)は閉所恐怖症。息のつまるような日々である。

先の2作には、このシチュエーションをもっとコメディ的に扱うところもあったけれど、こちらはもう少し都会の憂鬱を強く描いている印象で、閉塞感の度合いはより大きい。何をしていてもまるで満たされない感じが、ゆるゆると続く。そしてその先で行き詰った果てに、勝手に部屋に窓を開ける、という開放感の素晴らしさよ。強引で勝手な行為だけど、それを半ば受け入れている、都会の事情もある。それを容認せざるを得ないほど、窓がない…心も開くことが出来ない…という二人の心情を、街並のありように重ねていく。

二人は知らぬ間に、徐々に距離を近づけて、チャットをしている。その最中に停電となり、ろうそくを買いに来た店で偶然、接近することになる。マルティンは、暗闇を巨大な閉鎖空間とすることで、マリアナは闇という閉鎖された世界を、周囲が見渡せないからこその開けた空間にすることで、それぞれの恐怖症を気にしないままに乗り越えている。何もかもが見えている街中ではなく、不自由な空間で二人が出会うというのが心憎い。運命の人と出会うのは、もはや心眼の世界なのかもしれない。

元は短編映画で、それが評価されたことで長編化されたのだという。大筋はいっしょ。お店で二人があう場面は短編の方がはっきり描かれている。

あとエンドクレジットで主役二人が歌うところも、youtubeにはちゃんとある。


『はじまりは5つ星ホテルから』と『ブエノスアイレス恋愛事情』の2本で、わたしの梅田ガーデンシネマはおしまい。とうとう明日で閉館になってしまうのは残念としかいいようがない。続けてシネリーブル梅田になるから、何も問題がない、というのは、映画をみる、ということだけに関して言えばその通りではある。だが、合理主義や現実主義に付き合うつもりはない。その場所、時間、人々、それぞれに16年間分の思いがあるのだ。思いを重ねることが出来ずして、映画を好きだなどと言えるものか、と映画にロマンティックな夢を託す人間としては、そう思う。さようなら、梅田ガーデンシネマ。