眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

シン・ゴジラ 感想 その2

そろそろ終了するのか、それとも年内いっぱいは上映されるのか。などと思いながら、劇場へ。同じ映画をみるために足を運ぶこと、4度目。我が人生においても初めてのことである。それだけの魅力に満ちた映画だということなのであろう、わたしにとっては。

4回目でも飽きずにみられるということに驚いたし、みる度に、感動の度合いが増していくのも驚いている。そしてみる度に、震災と原発のことを思い出す。ラストでそびえたつ巨大なオブジェと化したゴジラの姿をみながら、この先の日本はどうなるのだろう、と柄にもなく神妙な気持ちにもなる。ゴジラの「尻尾の先から、生まれ出ようとしている人型の進化形態(第5形態?)に」戦慄しながら、そんな風に思う。

矢口蘭堂(長谷川博己)が、ヤシオリ作戦決行の前に、参加する人々にその思いを伝える場面がある。うっかりしていたけれど、自衛隊員だけじゃないんだね。民間人もこのミッションに参加しているのだ。自衛隊員は国を守る立場故、「もしかしたら」と、死を意識し、場合によっては覚悟もしているだろうが、一般人はどうなのか。彼らの決断を思うとき、震えが来る。映画内ではそんな民間人たちの姿は、他では直接的には描かれず、語られない。矢口の言葉だけが、彼らの決断と行動が如何に過酷なものかを物語り、希望を託されたことの重みを感じさせるのみ。実行計画の立案に感謝する矢口に、自衛隊幕僚長が「いえ、仕事ですから」と事も無げにいう場面があるが、民間の彼らも「これはおれの仕事だ」と言ったのかな。いやそれはもう、本来の仕事の限度を超えている。しかしきっと、日本を救うために、ではなく、仕事だ、と言って臨んだのではないか。そういう日本人が日本という国を支えている。いいとかわるいとかではなく、それが日本人なのだ。日本人であること、日本人だから出来ること、その先にゴジラを倒す手立てがある。という点で、やはり徹底的に、これは日本映画であるなあと思わされる。

ゴジラ映画ファンには、エンドクレジットも、たまらないおまけになっている。流れる曲は「ゴジラ」「地球最大の決戦」「怪獣大戦争」。モノラル音声なのだろうが、劇場の大音響で聴くとこれはこれでなかなかの迫力である。が、最後に流れる「ゴジラVSメカゴジラ」は、圧倒的な音質の差があり、音の厚みが全く違う。伊福部昭のこの重厚感の塊のような曲を、劇場で再び聴くことが出来たことの喜び。そして、なにゆえに最後の最後に「メカゴジラ」を選んだのか?という深読みも可能なのかどうなのか。ゴジラで始まり、メカゴジラで終わる。ゴジラを倒すのはゴジラ自身という暗喩なのか。ゴジラ映画の歴史を踏まえたのか。いやメカゴジラで終わってないだろ、と思う人もいるかもしれないが、昭和は「メカゴジラの逆襲」で終了、平成シリーズも最初は「VSメカゴジラ」で終わるはずだったのだ。ミレニアムシリーズは「東京SOS」できれいに完結している。「FW」は、総決算的なサービスに過ぎない(断言)。などとつらつらと考えるのも愉しい。

一度観に行って面白かった人も、観ていない人も、今頃やっと興味湧いてきたよという人も、まだ観る機会が残されている。まだ間に合う。ぜひ、劇場でご覧になっていただきたい。