眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

恐怖のメロディ 感想


PLAY MISTY FOR ME/1971年/アメリ

監督はクリント・イーストウッド

〈あらすじ〉モントレーの人気DJデイブ(イーストウッド)は、ある日自分のファンだというイブリン(ジェシカ・ウォルター)と知り合い、割り切った遊びと思い一夜を共にする。その後デイブは、しばらく姿を消していたトビー(ドナ・ミルズ)とよりを戻すが、イブリンの恋人気取りの行動と言動に悩まされる。やがてその行動は、過激化し、手に負えなくなっていく。

「ヒッチコックに進路を取れ」の最後の章は「ヒッチコックとその周辺」として、同時代、またその後の時代に、ヒッチコックが影響を与えたと思われる映画についてあれこれと語られている。その最後の最後で、「恐怖のメロディ」にも言及してあって、山田・和田両氏とも大変褒めているが、山田宏一は、「この映画は和田さんが発見した」とまで言っているから、当時本当に、全く話題にならなかったのであろう。「ダーティハリー」の日本公開が72年の2月。「恐怖のメロディ」は、同じく72年の4月公開。「ダーティハリー」のヒットを受けて、急遽公開したのかもしれない。公開規模も小さかったのかな。ひっそりと、知る人ぞ知る映画、という感じだったのか。当時を知る人は、もっと語ってほしいところ。

かつて、自分がどう思ってみたのかは、もう知る由もない。ほとんど記憶に残っていないからだ。印象が薄いということは、あまり面白いとは思わなかったのか。初めての映画をみるくらいの気持ちで再見した。おそらく20年以上ぶりである。…そして感想となるのだが、いやこれは凄いではないか、と。こんなにも恐ろしく、そしてスリリングな映画であったかと。あの頃の自分は何をみていたのだろう?何にもみていなかったんだろうが。

この作品は、以前から「色男が軽い気持ちで女に手を出したらえらい目にあった」映画と言われていた。浮気の代償とか、復讐とか。結局のところの問題は、男の浮気心にある、というとらえ方だった印象がある。今でもそう思ってみる人もいるだろうが、本質はそこではないと再見して判った。これはストーカーの映画だったのだ。何を今更、と思われるだろうが、自分でみて、はっきりと自分の頭でそうだと認識した意味は大きい。ここでは、男女の恋愛とセックスがその始まりだが、プラトニックな感情が一方的にふくれあがった結果のストーカーもいるだろうから、何がストーカーと接近する理由になるかは判らない。イーストウッドの「浮気心」は、その一例であり、映画のとっかかりにすぎない。ストーカー行為を、恋愛の枠から切り離せば、「黒子のバスケ」事件のようなしつこい嫌がらせ問題になる。つまり、この映画の恐怖は、もしかすると誰にでも起こり得るかもしれないこととして、普遍的なものだということである。男の浮気心が問題、という映画なら、よくできた娯楽サスペンスで終わり、ここまで後をひくような作品にはならなかったかもしれない。そういう意味で、イーストウッドの先見性の凄さも改めて感じてしまった。

イブリンを演じるジェシカ・ウォルターが、サスペンス映画としては決定的に大きな魅力。最初に出てきたときは、ちょっといい女風。ズカズカと家に上がり込んできたところまでは、まだ許せる感じ。二人で話していると「朝からうるさいぞ」と声をかけた隣人に、口汚く罵る辺りで、イーストウッドも眉を顰め始める。このあとの行動はどんどん変質的で病的なものになっていくが、ナイフというにはあまりにもデカい刃のブツを振り回して襲いかかってくる場面では、サスペンスというよりもホラーに踏み込んだ描写になっている。エスカレートして手に負えなくなっても、そもそも自分の撒いた種がきっかけなので、強気に出られないイーストウッドの煮え切らなさというか、弱さというか、そんな部分もサスペンスを引き立てる。イーストウッドは、「ダーティハリー」こそほぼ無敵のヒーローだが、それ以外にも、弱さや邪さを心の内側に秘めている人間を演じることが多い。初監督作のときから、それは如実に示されていたのだな。

サスペンス映画としての面白さは勿論、もうひとつ嬉しかったのは、ミステリ趣味もあること。特に、「トビー宅に、新たに同居することになったアナベルが姿を見せる場面のショック。この場面は、あきらかに「危険な情事」にも影響を与えている。ただ「危険な情事」が偉いのは、まんまにしなかったこと。あのひとひねりは実にうまい。現に、後の不倫サスペンスでは、あの場面の再現が何度もみられた。しかし、「恐怖のメロディ」のこの場面は、一種の叙述トリックであり、映画の見せ方としてはもっと上級である。もうひとつ、イブリンが去るときに口にした詩のくだりも、ミステリ好きを喜ばせる。同居人の名前であるアナベルから、エドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リー」を思い出したデイブは、本を探してその一節がまさにイブリンの言葉だったと知り、」今何が起きているかに思い至る。ここは見事だなあ。ここからクライマックスへの畳みかけ、暗闇の中での対決は、手に汗握るものになっている。昔みたときには、ラストがあっけないと思ったのだが、今見ると一瞬の決着というのも悪くない、と思った。男が本気出したらこんなもんだ、というマッチョイズムと取ることも出来るが…。

映画は短期間で、低予算で撮影された。モントレーやカーメルといったイーストウッドの地元でロケをしており、撮影のブルース・サーティースは、これを美しくとらえている。オープニングで、自宅からラジオ局まで車を飛ばす場面の空撮は、その景観のスケールの大きさが素晴らしい。デイブとトビーが喋りながら海辺を歩く場面、中盤でのラブシーンの海や森の景色、ジャズフェスティバルの様子など、観光映画としても十二分にその役目を果たしている。他にも、ごちゃごちゃとして動線を無視したような、デイブの家の作りやインテリア、彼が乗っている車、女性たちの70年代ファッションなども見どころに加えていいかもしれない。

緊密なサスペンス映画と思ってみていると、中盤のラブシーンとジャズフェスティバルの場面はかなりゆるめに感じられる。ロバータ・フラックの歌はフルコーラスで使用されていて、それに合わせるためにラブシーンを引き延ばしたように見える。

ジャズフェスティバルは、本当に開催中にカメラを廻していて、イーストウッドたちは演技をしているが、全体はのんびりした空気。この二つのシークエンスは、さすがに映画全体のトーンとは違っている。が、イブリンが逮捕されたあとの、気の緩んだ感じとしては悪くない。そのあとに用意されている、終わったと思った話がまだ続いていた…という、恐怖がじわりと蒸し返されていく感じを際立たせるスパイスとして味わうのがよろしいのではないかな。何かというと、ここは批判にさらされる。双葉十三郎先生も、ここで減点しているのも事実だが。

これは再見してよかった。イーストウッドのベスト映画のひとつに挙げてよい作品だと思います。