眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「超強台風」 感想

監督/フォン・シャオニン

あらすじ 
超巨大台風が発生。進路の先には中国沿岸部。そこには経済特区として発展を期待される建設中の街があった。人民を非難させるべきか、市長の悲願でもある街の建設を優先させるか、事態は逼迫するが、迷走する台風はとうとう港町に上陸。市長は、人々を救う決断をする。

感想
「あの港町は、旧い町で、お年寄りがなかなか頑固」「漁師たちが、船を守ろうとしてまだ港にいる」…だからと言って、「俺が直接行って非難させる」(大意)と、市長自らが町に乗り込むなどという無謀な映画があっただろうか。そこに至るまでに、さまざまなドラマや葛藤は描かれているが、ここからが本番である。

今の時代にあって、ミニチュアを駆使して高波や風を描くというのは、予算が少ないからやむを得ずの選択であったとしても、それはそれでなかなかに挑戦的なことである。何よりも、その心意気を買いたい。台風の直撃を食らうのが小さな港町という設定は、予算から逆算して決まったのかもしれないが、制約がある中でよくぞここまで、という表現があり、昔からの特撮映画好きを喜ばせる。風にゆれる信号機の動きとか、ミニチュア然とした自動車類とか、細かいところに目が行くとセットであることがはっきりするが、おそらく特撮セットはオープンで組まれていると思われ、一瞬実景と見間違えそうになるところも多々ある。ミニチュアセットの中を歩く人間が小さく合成されているのも素晴らしい。旧い町らしく、煉瓦積みの家などがある設定ゆえ、高波の濁流で倒壊する家、その瓦が剥がれ落ちるなどの細かい作業が生きる場面もあり、迫力があり恐ろしい。かつての台風での堤防決壊の場面も迫力があるが、飲み込まれる人々を見るとぞっとする。こういう高波の描写は、日本人にとっては特別な意味のあるものになってしまったことを思い、少し気持ちが沈むのも事実である。

ただ、映画としては、直線的な内容で、見せ方も少々単調である。お馴染みのパターンに則って展開するので、パニック映画を見慣れた人にとっては、毎度の内容となってしまい物足りなさはどうしても感じられる。せめて登場人物の人生それぞれを、もう少し丁寧に見せてくれれば、とも思う。例えば妊婦と研修医のパートは、サスペンスの要素としてしか機能しておらず、彼女たちのキャラクターが全く掘り下げられない。こんな雑な扱いでは、ラストでも何の感慨も沸かないだろう。そもそも台風や竜巻や地震といった自然災害は、人の力で事態の収拾が出来ないので、娯楽映画としては作りにくいということもある。基本的に、災害が過ぎ去るのを待つしかなく、その中ではどんなサスペンスも局部的なものに終わってしまう。ビル火災を鎮火とか、船の沈没を阻止とかとは違い、明快な決着を付けにくいので、どうしてもぼんやりとした結末にしかならない。ここも娯楽映画としては辛いところ。

市長に関する過剰な表現は、おそらくかっこよく描こうとして力がはみ出したためのものと想像するのだが、その辺、実際はどうなのだろう。漁師たちに「避難してくれ」と市長が膝をつく後ろで、高波がどばああああんと上がるところなどはその最たる場面だが、少しは笑わせようという気もあったのかどうか。逃げ込んだ倉庫に漁船が突っ込んできて、壁の隙間から鮫が入ってきてパニックになる場面でも、市長は「俺は特殊部隊だった」と言って自ら水に飛び込んで、棒きれで鮫をぶっ叩こうとする。その過去も凄いが、行動も凄すぎる。真面目に作っているであろうものを、苦笑こそすれ、バカ映画とか突っ込みどころ満載とかいって笑ってみるのは苦手なのだが、さすがにちょっと笑ってしまった。あと意外と衝撃的なのは、死人が出ないこと。死亡フラグが立っていると思われた人たちも生き延びる。いや確実に死んだと思われる人も、助かっていてびっくりする。あの外国人の写真家!高波に飲まれた時点で、普通はもう終わり。しかしそのまま町まで流されてきて、市長たちが立てこもっている倉庫まですっ飛ばされてくる。押し寄せる波よりも動きの速いスリも、港町の町長も、髭の漁師も死ななかった。人民解放軍がやられるところもなし。そういうところも含めて、プロパガンダ的な映画でもある。そこは色々思うところであり、人によっては、評価の分かれ目かもしれない。

超強台風/SuperTyphoon/2008/中国