眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

孤狼の血 感想

監督は、白石和彌

感想
面白く観たのは観たのだが、どうも乗り切れない部分もあり、複雑な思いを抱かされた。

原作者が「仁義なき戦い」に強い影響を受けたという発言があり、監督や出演者が「かつてのプログラムピクチャーの熱気」を意識したというような発言もある。物語の舞台は昭和63年(1988年)の広島の呉原市(一応架空の街)ということもあり、映像も70年代から80年代の映画のそれを再現したように見受けられるぎらついたタッチがあったりする。が、それが何だと言うのだろう。これらは過去の東映やくざ映画の再現という以上の意味を持たないのではないだろうか。昔の東映マーク、豚舎での拷問からのタイトル、そして二又一成によるナレーションに乗せて抗争事件の様相が語られ、赤い字でクレジットが出るところなど、おっ、と身を乗り出したが、それも過去を再現した風なところに喜んだだけであったことに気付いてしまうと熱は一気に醒める。

プロデューサーは「LA大捜査線」のような映画、監督は昨今の韓国の犯罪映画を念頭に置いたらしいのだが、どちらにも達していないと思った。かろうじてかすったかな、くらいの印象である。過去の映画の記憶や熱気に意識が向いた時点で、現在の視点で犯罪映画を作り続けている韓国映画に叶うはずなど、最初からあるはずがないとも思う。

以下、結末にも触れています。



何にもましてがっかりさせられたのは、役所広司の、やくざと警察を繋ぐロープのぎりぎりの綱渡りが、そこから落ちた後に、ちょっといい話になってしまうことである。過酷な環境下で身をすり減らしながら戦う役所広司が、実はかたぎのことしか考えていない、本当は良い人だったという真相には、三文小説にも劣る陳腐さしか感じられない。正義のためには平気で無関係の人を踏みにじる狂気の沙汰というのは、役所には存在しない。えらくまろやかな人物像が表出するのは、理不尽と不条理が貫く「LA大捜査線」や韓国製犯罪映画とは違うテイストかもしれない。役所が前半で見せた強引さも無理矢理なことも、結局は理に落ちてしまう感じだが、まあ期待していたものが違うということなのだろう。

音楽も、しみったれた場面には、べたついたものを付けてあるので(作曲は安川午朗)、ますます古臭い映画に見えてくるのもがっかりした。古臭いと言えば、ピエール瀧(とその妻)の右翼が一肌脱ぐところ。もちろん、上がいなくなれば自分が出世出来るという目論見もあるだろうが、亡き親友とその相棒のために、自分の親みたいな大ボスに引導を渡す手引きをするのだ。アナクロすぎる男の友情。あるいは義理と言った方がいいか。見るうちに、どんどん、現在の映画という感覚が薄れていく。面白く観終えたはずなのに、しばらくすると、自分が見ていた映画はいったいいつの映画であったのだろうという疑問が生まれてきた。自分が思う、いまどきのやくざ映画ではなかったということなのだろうか(いや、実際にはやくざ映画ではなくて警察の映画なのだが)。今も作られているVシネのやくざものなどは一切見ていないので、いまどきの、なんて簡単に言ってはいけないかもしれないが、少なくともメインストリームで作られるやくざ映画としては、アナクロに過ぎる気がした。が、昭和最後の義侠心的なものを意識しているというような監督のインタビューを読んでみたり、その中に地方の劇場主からは、「東映のこういう映画が観たかった」と言われるという話があったりすると、アナクロなのも当然なのだろうとは思う。そこに乗れる人には、最高に熱い映画になると思われる。

ちなみに暴力描写やエロ描写は、一応R15になっている程度の刺激はあるものの、さして衝撃的でも目を背けるほどのこともない。凄いと聞いていたので拍子抜け。刺激という点では、昔の方がずっと強かった。別に、昔はよかったと言いたいわけではない。が、どうしてもジジイの繰り言になってしまうのは仕方あるまい。それだけこちらも年を取ったということだ。力作であり、面白いのだが、どうにも乗り切れない結果となった。