眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

『パッション』をみる

TOHOシネマズなんば・別館にて。

脚本・監督はブライアン・デ・パルマ

復讐の物語が一応の結末を迎えたあとに訪れる終幕にびっくりした。デパルマと聞いて思い出す、数々の特有のタッチがこれでもかとここには描かれている。その表現で作られた映画の面白さを知っている者にとっては、往年の再現のようで懐かしい。かつての映画を追体験するような、映画の記憶が二重三重に被さるような。奇妙な幻惑感にとらわれて一気に奈落の底に突き落とされる感覚。真面目に見て来た観客を完全に置いてきぼりにする自分勝手さ健在!隣の席の年配の男性客は「さっぱり意味が判らん」とつぶやいていた。

相手を取り込むため、貶めるためのやりくちが、小学生のいじめのような、陰湿で凡庸で愚鈍な感じがする。複雑なようでいて、非常に「原始的な」女の戦いという図式でもあり、ゆえにどこか幼稚な感じがあり、突き詰めていくと、レイチェル・マクアダムスノオミ・ラパスもどこか奇妙に少女めいた感じがするのはそういうところに意味があるのかもしれない。美人ではあるけれど線が細くて軽いマクアダムス、固太りしているようにコロコロしているラパス。共にセックス描写があるのにまるでエロティックに感じない。「レズビアン」が物語を動かす一つの動機になっているのだが、深い性的意味合いではなく、形だけのものに思える。女のなんたるかを結局掴み損ねてしまった男が、それを自分の中に落とし込むための方法としてレズビアンという手段を取ったのかなとも思え、さすがデパルマ、何一つ変わっちゃいないと勝手に盛り上がってしまう。

判り易い衣装の違いがキャラクターを簡略化させ、撮影のホセ・ルイス・アルカイネは彼らの心情を、目に見えるようなアングルと照明とカメラワークで語る。観客の想像出来る範囲内で収まるような物語は、しかし単純化の中で逆に異様にねじれた螺旋を描くようになり、何が現実でどこまでが夢か判然としない混沌も生みだし、それが(かつてのデパルマ映画を愛する人にとっては、立ちあがって、拍手して、ブラボー!と叫びたくなる)驚天動地のクライマックスへと辿り着く…。

今年も色々と面白い映画を見ていますけれども、それらのどれともちがう興奮がありましたよ。双子、二重人格、ドッペルゲンガーピノ・ドナジオの音楽、スプリット・スクリーンの堂々たる使いっぷり。既知の物事もここまで徹底させればまた新たな感慨を生む、みたいな感じ。素晴らしい。