眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

『ガントレット』をみる

BSフジで。

クリント・イーストウッドは、実人生においては富も名声もあり、女性にもモテまくりのせいか、映画の中ではその反動かどうか比較的、欠点のある人間を演じることが多い。高所恐怖症のクライマー、緊張して動けなくなるスパイ、情には厚いが経営的には失格のウェスタンショーをやっていたり、犯人を追いつめるうちに自分の中の変態性に気付いて行ったり、ケネディ大統領を守れなかったり…と色々。そういう弱さが、単なる二枚目俳優という枠、単なるアクション俳優という枠を超えて、ボンクラな男たちの心を打つ、というところが、イーストウッドがオヤジ連中に愛される理由なのではないかと思う。

ガントレット』では当時の当たり役であるハリー・キャラハンを想起させるような刑事役でありながら、ハリーのように頼りになる強さはほとんどないのが何よりも面白い。どちらかといえばダメな刑事であり、ダメであるがゆえに、ある事件の証人であるソンドラ・ロック共々命を狙われるはめになる。誰にもその存在を重要とはされない冴えない人生を抱えた男女が、共に行動するうちに信頼し、固い絆で結ばれていく映画であり、ドラマ的なメインとなるのはロードムービーな味わいと、ゆっくりと重ねられていく二人の心情である。イーストウッドは頭の回転が速くない凡庸な刑事で、ロックは大卒で実は結構切れる。事件の背後にあるものになかなかたどりつけないイーストウッドに対して、先んじて想像をめぐらし、彼に気付かせようとする。守るものと守られるものの関係が、体力的な部分を抜きにすると逆になるところが面白く、二人の関係の一種の対等さがいい。この不思議な男女間のバランスは、モーテルの場面のやりとりがあるにもかかわらず、後に実はセックスしていない、という衝撃的な告白になるのだが、当時のイーストウッドとロックの関係をそのままスライドさせてしまうことを避けようとしただけのことかもしれないのだが、少年と少女のようなピュアな結びつきを感じさせるようになっており、やけにまぶしくみずみずしくさえあるのはそういうことではないのかと思ったり。貨物列車でのバイカーたちとのやりとりのあとの、よれよれの二人が目で交わす気持ち、あの場面の素晴らしさは特筆ものだけれど、ちっとも肉体的な接触がないところがそんな思いをますます強くさせる。突撃する場面で、キスもせずただ手を絡ませることが愛の交歓の表現になるというのもしびれます。

昼間の、太陽の日射しが、影をくっきりと地面に焼き付けるようなまぶしさと、夜のしっとりとした暗闇の見せ方の対比も素晴らしい。マフィア連中の車が列をなしてやってくるところなどはライトが順番に消えていくという、リアリズムではありえない演出なのだが、これがもう犯罪映画的にはかっこよくも凶悪な感じが漂い、パトカーに散々銃弾をブチ込んだ後誰ひとり顔を見せることなく、静かに立ち去る車の列には夜の恐怖がじっくりと込められている。といっても、登場人物にとっては昼も夜も関係なく悪夢のような出来事であることは変わらず、昼間だろうと容赦がない。誰も味方がおらず、徹底的な殲滅をめざす警官たちやマフィアには物言わぬ不気味さがあるし、人っ子一人いない荒野、そしてフェニックスの街の中、と、熱でのぼせてみている白昼夢の如きうつろな感覚が、ごく普通のアクション映画とは違う趣であり、これがこの映画を特異なものにしている。延々と続く追撃が終わらないような展開、いつまでも撃ち続けているようなクライマックスのバス銃撃は、時間がどこかねじているのではないかと思わせる。眩暈のようなふらつきを覚える感覚は、冒頭とラスト、車から降りるときにヨレった足から映されるイーストウッドの立ち位置そのもののようにも思えて、すべてが二日間の長い悪夢のような、そんな奇妙な味わいを残すのであった。ということで、やはり久々に見直しても、イーストウッド映画の中でもかなり好きな作品だった。うれしい。