眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

『ほとりの朔子』をみる

脚本・監督は深田晃司。2013年の映画。

何よりもまず、二階堂ふみをみるためにある映画。クセの強い映画と役柄では、普通の女の子としての可愛らしさをあまり重要視されていない感じがあったが、ここでは、彼女のふてくされていない、ひねくれてもいない表情がたくさん映っており、彼女のファンには眼福ものの、年の行った人たちからは、姪っこを愛でるような、そんな愉しさがある。大人と子供の時間のあいだでたゆたっているような、アンニュイな姿が愛おしい。

自転車に二人乗りして川にいく場面の、どうということのない気楽さ、どうでもよい感じ、自転車の風を切る感じ、海辺でのやりとり、喫茶店での会話…。この映画は一種の会話劇だが、意味のあるようなことも、ないようなことも、だらだらとしゃべる。この場面、こんなに話す必要あるかな?というくらいしゃべっていたりもする。透かして見ると向こう側にフランス映画がみえる。監督は、日本映画でエリック・ロメールは出来ない、とインタビューで語っているけれど、いや充分ロメールだ。

突然始まるパントマイム。意味ありげな赤い風船。そしてそれをみて涙を流している男。茫然と見つめるほとりと孝史(太賀)…。押しても引いても動かない赤い風船。放っておけば風船は軽く、どこへともなく飛んでいくものである。それを意味のあるものとして、そこに存在するものとして扱うには、自分の強い意思の力がいる。そう見せるための技術もいる。また、海希江(鶴田真由)は、ほとりに、自分以外の誰かが自分のことをより知っていたりする、とも言う。理解されない、見てもらえない、というのは不安なものである。が、一見意味不明なことであっても、そこに意味を見出してくれる人間はいる。誰かが、それに気付いてくれる。また、気付いてもらうためには、それ相応の動きが必要であるということでもある。だからほとりは、予備校に行くこともすんなりと決め、憑物が落ちたように、さわやかに街を去る。

目の前に存在するのに、見えないもの。大人たちが秘密の恋を重ね、大人4人でくだらない、しかしスリリングな恋の話をする場面など、まさにそれ。大人の事情を受け入れてみないふりをしているのもそうだし、原発反対の集会についてもそう。寓意性が消えて生々しくなっているが『歓待』と同じテーマが変奏で描かれているようで愉しい。