眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

豆腐について

豆腐が好きである。特に、木綿である。子供の頃は、ほろほろと崩れる感触よりも、つるんとした感触の方を心地良いと思っていたのだが、これはひっかかりがない。飲みこんでしまう。ある程度年を取ったある日、たまたま食べた木綿豆腐の、口の中にはっきりと感じる豆腐の存在と、鼻に抜ける独特の風味に気付いた。ああ、豆腐というのは、こういう味だったのだな…と、豊饒な風味と味わいがあるのだな…と、遅ればせながら、それを知ったというところであろうか。

とはいえ、味覚が鋭敏なわけではなく、むしろ大雑把である。しかしながら、大雑把であることは、スーパーで、えっというほどの安い値段で売られているものも、豆腐屋で買ってきたものも、あまり差なく、おいしく頂けるという利点があるので、そう捨てたものではない。安すぎると、ほとんどが水なんだろうなとか、余計なものが入ってんだろうなとか、遺伝子組み換え成分が大きいんだろうなとか、色々考えてしまうので精神的なものが味に影響を及ぼしている可能性もあるが、だからといって豆腐屋で買ってきたものが、やたらと旨し!と感じるわけでもない。信じるに足るものなど、ほとんどないのだという達観に立てば、何を食べても大して差なし、とも言えるわけで、己の悲観的な物の見方もすべてが悲しいわけでもない。

豆腐は、味がないから好きではない、という話しをたまに聞く。うどんでも聞く。一瞬、納得するが、いやそれは違うと思い直す。味がないからではなく、元々好きじゃない味なんだろう。何故なら、味はあるからだ。水っぽさの中に、ほんのりと香る大豆の匂い。口に含めば、それは明確な形を成す。ただ刺激はない。これだけで食べろ、というのは確かに辛いかもしれない。そのために、何かをかける、という食べ方をする。基本的には醤油ということが多いと思われる。味噌をのせる、というのもあり。胡麻油は昨今の流行り。オリーブオイルもあり。そのうえで塩をのせるのもあり。わたしは胡麻醤油が好きで。擦った胡麻に醤油と砂糖を入れて混ぜ、甘じょっぱくしたもの。一味唐辛子を入れて辛みを出したりもする。トッピングは、ネギやしょうがや鰹節をベースとしつつ、細かく刻んだ漬物や、キムチ、納豆、わかめ、それと、揚げ玉も好き。電子レンジであっためて、天つゆを合わせれば、揚げ出し豆腐を作るのが面倒な時など充分その代理を務めてくれる。ケチャップやマヨネーズやソースだって、豆腐を炒めることで簡単に絡ませることが出来るうえに、旨い。最近は、水分を抜いてチーズ風にしてみたり、クリームとして使ってみたりと、色んな食べ方が広がっていて愉しい。

でもいちばんいいな、と思うのは、やっぱり醤油。基本中の基本である。夕食の一番最後、締めに食べる。さっぱりとしているので、締めにふさわしい。口の中が清浄化されるようでもある。落ち着いて、ゆっくり食べる。すると、その味を、しみじみと感じられる。幸せである。いいなあ、旨いなあ、と思うのだ。余計なことはしなくていいな、と思うのだ。一種の人生論めいてくる。豆腐を愉しめる生活。大切にしたいものである。

もうひとつ。味に集中する。淡白な味わいだからこそ、それを見極めようと神経が集中する。味を探す。深く深く、舌にのせ、崩し、崩れた断片をさらに崩し、その奥に味を見つけようとする行為…。そこには雑念がない。これは、精神的な安定をもたらすものである。豆腐を味わって食べることは、そんな深みすらある…のではないか、とも思っている。食べるという行為全般に対する、考え方とも言えようか。なんでももっと、味わって食べろ、と。これは本当に、世界観が少し変わる。その第一歩として、食べているときに、鼻から空気を抜くことを試していただきたい。味は、舌だけで感じているのではないことが、よくわかる。途端に、自分は食べるという行為をあまりにないがしろにしてきたのではないか、と思えたりもする。ていねいに食べることは、大切なことなのだな、と改めて知る次第である。