眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

恋におちて(1984・米)

FALLING IN LOVE
監督は、ウール・グロスバード。
先日、見返しました。以前やっていたブログで感想を書いたのですが、読み返すと、なるほどそういう見方をしていたか、と。どうせ読んでいる人などいるはずもないので、もういちどここに載せることにします。まあ、手抜きです。
『もうこういうメロドラマが好きな人ならば、おそらくとっくに観ているはずの、もはや古典みたいなものです。ここであえてお話を書く必要もないほどに。簡単に言えば不倫の映画ですね(そう書くと実も蓋もない)。

印象的な所はいくつかあるのですが、まず、本屋さんでの出会いが、二人の恋の始まり、ということ。本屋なんて普段しょっちゅう行きますからね。こういう出会いは妄想の中でもありがち。中学生どころか小学生でも考えそうなシチュエイションです。ということはそれだけ単純で純度が高いとも言えます。映画はもう一歩のところで、二人はプラトニックを貫きますが、それは出会いの純度のその高さと全く無関係とも言い切れないと思いますね。それと、二人が会ったり出かけたりする場面が昼間なのも、大人の映画、という先入観を多いに裏切るところ。二人でお酒を飲みにいく、という場面もない。ていうか、デニーロが仕事仲間や友人と飲んでる、という場面もない。友人のハーベイ・カイテルとレストランで会う場面ではビールを注文してますけど、実際に飲む場面はない(でもメリルにどう声をかけようかと思案する場面は、もしかしたらあれはビール?そこはちょっと判らないですね)。夫なり妻なりの家庭がある身としては、そうそう夜に会うことも出来ないってことでしょうけれど、かなり意識的にそういう描写を避けてますよね。純度の高さ、プラトニックな関係、とはつまりは若い恋だ、ということです。年に似合わぬ純粋な恋。そういう想いは人生の若き日にやってくるもので、二人の描写が昼間に集中しているのはそういうことなんでしょう。だって、ちょっと遅い時間になっても、駅の喫茶コーナーではコーヒーかなんか飲んでますし。
それから強烈に印象に残るのは、二人の密会がピークに達する、アパートの場面ですね。激しく求め合う二人ですが、メリルが「やっぱりダメよ、できないわ」と。対するデニーロは声を荒げて抗議…なんてことにはならず、それを受け入れます。このシークエンスでの二人のキスシーン、左手のアップがしつこく撮られていて、そこにはお互い薬指に結婚指輪がしっかりはめられているんですが、もう何を言わんとしているのかがあからさま。こんなに激しく描写されていたとは、何年かぶりに見返して初めて気付く間抜けさ…。それを意識すると、例えば、メリルが車をすっ飛ばしてデニーロに会いに行こうとする場面でも、踏み切りでハンドルを切るところ、ピントはメリルに会っていますが、ちゃんと指輪をはめた左手が画面に入っていますし、ラストシーンもちゃんとそれで物語っていることに気付きます。ラストの列車で二人が抱き合う場面では、メリルは黒い手袋をしているし、デニーロの左手はちらりと映りますが、画面にはほとんど入って来ません。どういう結末なのかは、観る人それぞれですけど、まあそういうことですよね。
あともう一つ、この映画は色が鮮やかで(撮影はピーター・サシツキー)、赤とか黄色とかも凄く綺麗なんですが、そのなかで、青は特に印象的です。夜のニューヨークはもちろん、昼間ですら、かすかに青い。衣装も青かったりします。クライマックス、本屋の外に出てからは街並み、駅構内、列車と世界が青に染まります(大袈裟か)。ラストのメリルのアップにかぶさる列車の青いラインと蛍光灯の青白い灯りが暗くなる画面の中に一筋の光のようになっておしまい。美しい…。』
実はサントラ盤は発売されていなかったらしく、今回初音源化で、一部で話題にもなっていますな。テーマ曲の「Mountain Dance」もデイヴ・グルーシンの既成曲で、映画のための曲ではなかった、と。映画のために書き下ろされた曲はあまりないとのことですが、それでもサントラ盤として一枚にまとまることの意味は大きい。

演奏だけ聴いていると、ライブとは思えない。オリジナル音源そのままのようにも聴こえる(ま、多少のミスタッチはあろうが)。変なアレンジなんて、しないものなんですね。
ところで、今日はクリスマスイブですが、みなさん、如何お過ごしですか。わたし?ま、関係ないですね。今年は、過去20年間くらいで、初めてクリスマスケーキを食べませんでした。いよいよ、そんな甘っちょろいものは卒業です。今夜の食事は、卵焼き、白菜と大根の味噌汁、ひじきの煮物、豆腐、でした。いつもの食事と何も変わりません。クリスマスなど、所詮、まやかしです。