眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

キングコング(1976 米)

KING KONG
監督はジョン・ギラーミン

脚本のロレンツ・センプル・jrは、「パピヨン」とか「パララックス・ビュー」とか「コンドル」を書いている人である。この作品でも、オリジナルとは一味違う要素を盛り込み、巨大な猿の怪物が暴れるという所は同じでも、似て非なる映画にさせている。

特に面白いなと思ったのは、ジェフ・ブリッジスジェシカ・ラングの関係。ジェフは動物学者であり、チャールズ・グローディンたちの石油会社のような消費社会や文明とは少し距離がある立場。ジェシカも、派手な世界に憧れる駆け出しの女優で、ジェフとは対極の世界に生きている。それでも二人はやがて、そういう関係になっていくが、しかし基本的には相容れない存在であり、その距離感が、意外としつこく描かれている。

熱っぽくアプローチするのはジェシカであり、ジェフはその度に言葉を濁し、結局、根負けしたように彼女を受け入れるように描かれている。ジェシカは、己の女性としての魅力を意識しているのかしていないのか、良く判らない立ち居振る舞いをするのが面白く、天真爛漫な少女のようにも見えるし、熱烈なアタックをする女性でもあり、男たちは自分の言うことを聞いてくれると熟知した、女性のしたたかさを備えているようでもあり…。世界が違うんだよ、というジェフに、そんなことないわ、と言ってしまうような女性であり、しかもそれが嘘ではないようで…。これはいわゆる、黄金のハートを持つ女性、なのではないか…と思ったり。

ラストでも、群衆に取り囲まれて、カメラのフラッシュの中で泣くジェシカは、計算高さもずるさもなく、途方に暮れた少女のように見える。しかも衝撃的なのは、駆け寄ろうとしたジェフが途中でその歩みを止めてしまうことだ。悲劇と破壊に彩られた見世物と化したヒロイン。ジェフの行動の途絶は、所詮、自分の行動は彼女を救えないと気付いてしまう絶望ゆえだ。そもそも彼は、隣のビルから、屋上でのコングの最後を目撃するだけという、人間側の主役…ヒーローとしての役割を放棄してしまう。そしてコングが暴れると、一緒に雄叫びをあげる。コングと同化している。彼がジェシカにとってのヒーローであるなら、コングは敵であり、ジェシカを助けに行かなければならない。が、彼はヒロインを護る存在でなくなってしまう。その時点で、この結末は決定してしまっていたのだ。

そういう意味では、これもある種のファムファタールもの、とも言えるのではないか、とも思った。無邪気な女の行動に翻弄されて、運命を狂わされる二人の男。片方は雄々しく命を散らし、片方は女を護れずうなだれる。そこには何も残らない。誰も救われない。と同時に、権力に挑んで倒れていく、ニューシネマの匂いがまだ残っているような感じもある。血にまみれていくコングの姿に、無駄と判って敵に突っ込む若者たちの姿がダブって見えても、それも穿ち過ぎではないように思える。

ロケーションの素晴らしさは、如何にも大作映画らしい風格で、それが今となってはたまらない贅沢さ。今は、圧倒的なスケールをさらにCGで加工したりするので、素直に感動出来ない。山道を歩く一行を撮ったショットでは、カメラがぐんぐん引いて行き、どうやら山のかなり高い位置から撮影したらしいと判るのだが、これなどあれだけのために山の上まで機材運んでセッティングして、と考えると、気が遠くなる。まあ、今でもやっているだろうけれど、その凄さが今は素直に伝わらなくなってしまった。CGという嘘をつき過ぎたせいで。洋上の霧の場面、島への上陸、原住民とのやりとりや、巨大な壁。ジェシカがいけにえにされる場面の高揚感などは前半のクライマックスとも言える。

特撮は、リック・ベイカーによる着ぐるみがメインとなるのだが、今みるとどうも人間ぽ過ぎて、どうなんだ?という気はどうしてもする。直立歩行し過ぎというか。2005年版だと今度はゴリラ過ぎて、あれも辛いのだが…。東宝版のコングは概して評判悪いけれど、あれは猿でもなく、人間でもない、微妙な怪物感があってよかったんじゃないかなあ。でもコングの表情は素晴らしい。充血した目で悲しげにジェシカを見つめるラストなど、ぐっとくる。ということは、リック・ベイカーの熱演のおかげということだろうか。

ミニチュアの点では、島ではあまりジャングルっぽさがないために画面がスカスカにみえ(岩場が多い)、画面も暗い。巨大感を出そうとしたせいなのか…。ここらはちょっと物足りない。ニューヨークの場面も、昔はもっとリアルな感じがしていたが、如何にもなミニチュア特撮になっていて、これも意外だった。当初は中野昭慶が撮るはずだった、というのもなんだか判る。そして、これくらいなら中野昭慶が撮った方が、もっと面白くなったのでは、とも思われる。本当はもっと破壊するはずが、色々撮影の都合上出来なかったらしいけれど。破壊と言えるのは、電車を襲うところくらいかな。巨大感が半端なせいでか、あまり巨大に見えないのだが、それはゴジラに慣れ過ぎたこちらの問題かもしれない。

ジョン・ギラーミンの演出も、変に思い入れなどしない、簡潔な描き方が、今となっては潔い。人物の出し入れの呼吸も余裕たっぷり。グローディンを少しコミカルに演じさせたりする辺りも面白いし、一方で、近寄りながらも微妙にすれ違う若い二人を、丁寧に描いている。悪くないじゃない。何故あんなにバカにされないとダメなのか。

そして何よりもジェシカ・ラングの魅力。スタイル良過ぎで、エロすぎる。天衣無縫な振る舞いから、あふれ、にじみ出るエロさ。そりゃ、このときのジェシカ・ラングに甘えられたら、たいていの男は誰でも言うこと聞いてしまうだろう。そういう点で、この映画におけるジェシカ・ラングは、この当時でしか出せない輝きを備えた美しさが確実にあった。しかし、映画があまりよい結果にならなかったことで、彼女のキャリアも一旦終わりかける。次に彼女が映画に戻って来るのは3年後の「オール・ザット・ジャズ」。美しい彼女の姿を、我々は3年分、無駄にしてしまったのだ。映画が酷評されたのは仕方がない。だが、彼女の演技とそれとは関係がない。また、彼女の容姿とも関係がない。関係がなかったことは、後の彼女のキャリアが証明している。あのとき、美しいだけ、とジェシカ・ラングをバカにし、キワモノ扱いした人間は、本国だけでなく、日本にもたくさんいる。今思うと、恥ずかしいね。あんまり偉そうなことは言わない方がいいね。ハニートラップにはまったとき、周囲にどん引かれるような人間にはなりたくない、というか。あはは、バカだねえ、と笑われるような人間でありたいよ。

因みのこの作品は、76年暮れから77年の、お正月映画。38年前、小学三年生でしたな…。見に行きましたよ。大阪ですので、OS劇場で見たかったんですが、何故か梅田地下劇場で…。人が多かったからか、入場料が高かったからか…。今となっては、場所も記憶もおぼろげですけど。当時の北野劇場などの地下で、あまり大きい劇場ではなかったようですね。ここで見たのは、たぶん「キングコング」だけ。昭和52(1977)年12月の毎日新聞・夕刊に(こちらで読みました→http://jca.my.coocan.jp/kabuki/news/nwsppr3/kiji02/5189KB.htm)「正月明けから映画館が取り壊される」という記事があって、再開発後に、ここはナビオ阪急になるわけですが、ということは、「カサンドラ・クロス」とかは、昔の北野劇場で見ていたんだな、と。その辺の記憶もあいまいなんですが、梅田東映パラスや阪急プラザ劇場の記憶は割と鮮明なので、やはり再開発中の空白期だったせいで、東宝系の劇場では見てなかったんだな、と改めて思いますな。思ったところで、どうということもないんだけど、そうかあー、とひとり、ごちる、といいますか。