眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

黄線地帯 イエローライン (1960 新東宝)

脚本・監督は、石井輝男

偶然が偶然を呼んで、いつの間にか、話しが繋がっていく。ご都合主義であるとか、安易であるとか、言うのは簡単なのだが、ここまで来ると、何か別の、超然としたものが感じられるから不思議である。人の欲望も、境遇も、運命も、言ってしまえば結局は、偶然の積み重ね。即ち、偶然こそが世界を支配しているのだ。複雑怪奇に入り組んで迷宮の如きものにみえても、進むべき道はちゃんと用意されている。人智の及ばぬ、何者かの意思が、そこにあるかのように。我々は、生きているのではなく、生かされているのではないか…。見事な連係でもって紡がれる物語は、必然であり、どんなに陳腐な出来事でも、その裏には、みなその必然が存在しているということである。つまり、世界とはそういうものである。そんなバカな、というような、ありえない、と怒るような、そんなもので繋がって世界は出来ているのだ。所詮、陳腐なものなのだ。偶然の連続という必然の中で、陳腐な世界を嗤い、戦いを挑む。闇の中を、執念の鬼となって敵を追い詰める天知茂に、石井輝男をダブらせた。

神戸の、カスバと呼ばれる港町のセットが、素晴らし過ぎて見とれてしまう。歩けば、肩が触れ合うほどに道幅は狭い。やたらと高低差があり、階段が多い。ヤク中、売春婦、ギャング、雨、安ホテル、ぎらついたネオン…。猥雑さと、暴力と、退廃。新東宝という会社の置かれたギリギリの状況(翌昭和36年に倒産)も、そこには重なっているのかもしれない。

俳優たちも素晴らしい。三原葉子の、華やかさととぼけた表情のアンバランスさ。それが極限に達するのは、ダンサーがいないから代わりに踊ってくれと言われ、いいわよ、と快諾して見せる(売春組織に売られようとしているのに!)、妖艶なダンス。天知茂のみせる、ふわっとしたやさしい顔もいいんだ。常におそろしげな顔をしているなかで、洋モク売りの女とやりとりをするところとかね。あと「恋愛なんて、足の早い食い物みたいなもんだ」とか「どうやら俺とは人種が違うようだぜ」とか、台詞がいちいちかっこよくて痺れる。吉田輝雄はやたら男前なのに、ぼんやりした感じがあり(顔やスタイルに対して、あまりにも朴訥な感じ。指をパチン、と鳴らすところもちょっとかっこ悪くていい)、しかも動き回るわりに、あんまり話しに絡まない。変なポジション。だがそこがいい。

冒頭部、天知茂が、仕事のためにホテルの上へあがり、終えて下りてくるところを、映画は丁寧に撮っている。この、上まで行って下りてくる、という構図は、映画終盤にも繰り返される。天知の運命を、なぞるような動き方。カスバでは、上へ行き下へ行きするが、それもそのまま、彼の心情の現れのようにもみえる。

もうひとり、吉田輝雄にかかわったばかりに、悲惨な結末を迎える売春婦(スーザン・ケネディ)が印象的。カスバのセットや、彼女を見ながら、石井輝男の後年の作品である「徳川いれずみ師 責め地獄」を思い出した。あの映画の阿片窟のセットはカスバと似ていたし、全身にいれずみを入れられるハニー・レーヌと、白人なのに黒く塗られているスーザン・ケネディには、同じ匂いがする。異常性愛路線の萌芽というのは、新東宝時代にあったんだな、と改めて思う。
2年ほど前に、日本映画専門チャンネルで録画。みたら、即消すつもりでいたが、面白過ぎて、それが出来ないでいる。