眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

全く覚えていない映画(3) 「ウーマン・プリズナー」(1985 米)

ビデオタイトルは「暴力天使」。

テイタム・オニールとアイリーン・キャラが主演ということ、逃亡しながらのアクション映画だったこと、この2点しか覚えてない。
以下、1986年の日記より。

『テイタムとアイリーン。つまらなくても、これを流すということがえらい(注:放送は4月24日「木曜洋画劇場」にて)。作品の出来はそうたいしたものではなかろう。テイタムとアイリーンが、裁判中に逃走するというオープニングを手始めに、さまざまなアクションが展開していくストーリーだが、まずお話に面白味がない。もっとなんとかならないか。とはいっても、見せ場の作り方がそれなりにうまく、下水道に逃げ込んだものの水責めにされ、警察に追いつめられたりするところ、さらにその警官がメタンガスの中でタバコに火をつけてふっとんでしまうとか、結構みせる。だが、主役二人の心の通いあう描写が皆無に近く、おまけに二人のおいたちも、アイリーンの方だけかすかに語られるくらいで、何故この道に走ったかの説明もなく、演出も平凡なのでどうも退屈。警察の無能さが今回もまたバリバリの情けなさ。ついでピーター・フォンダのボスたちが必死になって追いかける描写にも説得力はなく、結局どうでもいい出来の作品になってしまった。もっと面白くなりえた作品だけに惜しい。大体しょっぱなの銃撃戦に迫力が感じられなかったのはどういうわけだろう。ま、TV局で勝手に編集して、撃ち合いをスローモーションでみせたりしているから仕方ないけど。それからテイタムの声があんなドラ声ではいかん。それだけは言っておく。アイリーンには感情移入出来ないよ。あんなにつきまとってこられて、うだうだ理屈をこねる奴は好きではない。期待してみたのだが、もうひとつだった。残念。』

相変わらず、脊髄反射的な感想を書いている。この作品は、日本劇場未公開作品で、このときがテレビ初放送。映画雑誌などでは、以前よりたまにとりあげられていたので、存在は知っていた。何よりもテイタム・オニールとアイリーン・キャラとなれば、食指も動くというもの。テイタム・オニールが80年代前半、若い映画ファンの間で、どれほど人気があったか。それを忘れてしまうと、どうしてこんなに点が辛いのかの理由が、ピンとこない。テイタム人気は、このとき既に凋落しており、「リトル・ダーリング」以降の彼女をみるのは久しぶりでもあった。自然と期待値が高まっていたんですな…。かなりつまらなかったみたいだけれど、今みたら、たぶん、普通の低予算アクション映画ではないかと思われ、実際、Youtubeには全編上がっているんだが、迫力がないと記している「しょっぱなの銃撃戦」も、なかなかいい。女二人に警官たちがどんどん撃たれていくのが凄いですよ。勿論低予算の枠ですけれども、これで文句言ってる当時19歳の自分の方がおかしい。どれだけ物知らずなんだと、説教してやりたいところですな。

これは予告編。普通に面白そう。

テイタムの生の声を聞くと、あんなドラ声、と書いているのもわかる。本当の声、可愛いからね。吹替えは誰だったんだろうな。

↓こちらはオリジナルのアートワーク2点。上の方がかっこいい。「アカデミー受賞者」というのは嘘ではないが、逆に虚しくないか。売れるものはなんでも売るのは当然かもしれないけれどもさ。下の方は、日本版VHSのジャケットデザインの基になっているものだけど、当時としても、かなり趣味が悪い。いつの時代?という感じがしますな。

因みに「certain fury」という原題のまま、アイリーン・キャラの主題歌(?)があり、それは彼女(とトニー・プレンダットと)の作詞作曲。全編アップされているものをちらりとみた感じでは、劇中では使用されていないようなのだが、だとしたら、権利の問題で流れないのかもしれない。エンドクレジット表記も、追加したような形で、最後に出るし。
だが案ずることはない。日本でのライブで歌っている姿がある。ちゃんと最初に「わたしが作曲したテーマソング」と言ってますね。

フラッシュダンス」の大ヒットは1983年だが、↑このときにはもう、アイリーン・キャラも、過去の人になっていた印象。この映画では裸の場面もあるが、それをみても、大変華奢。それでいて、あのパワフルボイスだからすごい。でも、歌手としてはともかく、女優としてはあまり成功しなかったな。最近はどうしておられるんでしょうな、お二人とも。

監督のスティーヴン・ギレンホールは、後に主としてテレビドラマを撮っているようだが、なんと、娘はマギー、息子はジェイクの、ギレンホール兄弟の父なんですね。芸能一家だと、仕事ぶりが明白なので、色々気を使ったりするんでしょうかね。

「暴走マッドチェイス」の時も思ったが、当時のわたしは、相当高いレベルのものを要求していたと思われる。そりゃ、目に付くものに対して毒づき、唾棄し、尊大にもなろう。まだ何も知らぬ幸福な時代だった、とも言えるのだが…。しかし、愚かなり。