眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

呪いの館 血を吸う眼 感想

夏のホラー映画祭り その4

第1作が「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」、第3作が「血を吸う薔薇」、所謂「血を吸う」3部作の第2作が「呪いの館 血を吸う眼」。

子供の頃に悪夢的体験をした藤田みどり。湖畔の別荘に暮らしているが、ボートハウスにあやしげな柩が送られてきたことに端を発し、奇怪な事件が発生するようになる。首筋に噛みついたようなあとがあり、極度の貧血の女性たち…。それが意味するものに、みどりの恋人・高橋長英は、医者という立場から現実的に対処しようとするが…。

「血を吸う人形」も終盤にミステリ色が濃厚になったけれど、「眼」は特に、藤田みどりの過去を探る、という物語になっていくので、その色がさらに濃い。子供のときにみたものは一体何だったのか。そして、その背景では何が起きていたのか。生まれ故郷の能登に向かい洋館で対峙する、事の真相。岸田森演じる不気味な男の正体が語られるのだが、生まれながらにして吸血鬼だったのではない、というところに、想像していたよりもおぞましいものを感じてしまう。その設定ゆえに、岸田森は、悪魔の王のような恐ろしさと、救われない悲しみとが同居するという複雑さを感じさせる存在となる。怪奇な物語に、一抹の寂しさ、悲しさ、そして憐れみすらも覚えさせてしまう。前作の、母親の娘への思いが痛ましかったように、今回は、父親の息子への思いが悲しい。悲劇の物語。

みどりの妹を演じる、江美早苗がよかった。表面的には姉妹仲は悪くないのだが、実は姉に対して、ずっと不満を抱えていたという屈折したところがいい。ちやほやされる姉に嫉妬していたのだが、岸田森に血を吸われてしまい、その後、心情がストレートに表に出てくるようになる。それもまた、恐ろしくありつつも悲しいのだが…。血を吸われることは、死に近づくということと同義。が、吸血行為は、セックスのメタファーと言われており…ということは快楽でもある。死に近づけば近づくほど、快感が、つまり生きているという悦びが生まれる、という実にアンビバレンツな感覚。吸血鬼映画の持つ倒錯した感じとは、そういうことだ。そして快楽に身をゆだねるということは、己の欲望に忠実になるということ。結果として、抱えていた鬱屈をも解放する、ということ…。悪魔に魅入られた者は、その快楽におぼれて全てを壊して行くのだ。

岸田森絡みで、他に印象に残ったのは、最後まで手枷を外していないというところ。外せなかったのか、外さなかったのか。意外な、色んな意味での重みがそこにあったのかもしれない。と、描かれていないことを想像する愉しみ。あと、壁をぶちやぶって出てくる場面。金色のコンタクトレンズを装着するとよく見えなかったと言われる中で、あんなに豪快に飛び出してくるのは勇気と気合がいったのではないかなあ。一歩間違えば2階から転落ですもんね。

病院に担ぎ込まれた患者役で、桂木美加。ネグリジェの丈が短すぎる。パンチラすれすれ。「薔薇」のコメンタリーで、撮影の原一民氏が、「太股が映るのは、田中(文雄)さんの趣味」と言っていたので笑ったが、「眼」でも太股の露出度高め。当時はミニスカートが流行りだった、ということもあるけれど。桂木美加は「眼」と「薔薇」に出演しているものの、どちらも台詞なし(だったような…)。「帰ってきたウルトラマン」が71年4月2日放送開始、「血を吸う眼」が同年6月16日公開。丘ユリ子隊員の、思わぬエロさに触れてしまった小学生男子も観客にいたと思うのだが、どんな気持ちだったんだろう。その後「帰りマン」をみるたび、丘ユリ子のユニフォームの下に、色々想像を巡らしただろうか。

「人形」では催眠術が重要なキーワードだったが、今回も物語を動かすポイントで使われている。みどりの記憶をさぐるために、長英が催眠術を使うのだ。いわゆる催眠療法。今はもう使われることはなくなった治療。上の世代ではおなじみだが、若い人たちだとどうなのだろう。知っているのかな。血液型に性格の違いがあると本気で信じている人には、催眠療法にも興味がうまれるかもしれない。前世にまで記憶が戻るとかいうけど、そんなの嘘ですからね。

比較的、低予算の映画だったと言われるが、洋館のセットなどかなり大がかりなもの(美術は育野重一)。前庭までセットで作っているのが凄い。廊下の幅が結構取ってあり、余裕があるためか、2階での岸田森高橋長英のアクションもしっかりと演じられている。

能登という設定の、海辺の夕焼けが美しかった。このシリーズには特撮映画っぽいショットは少ないが、この夕景の合成は実に素晴らしい。ノスタルジーあふれるものであると同時に、赤い空は、血のイメージも喚起して、作品世界を補強していた。

田中文雄も、コメンタリーで語っているが、やはりこれくらいのこじんまりとした感じが、怪奇映画には相応しい。登場人物の少なさは、頼り所のなさと通じるので、不安感が増す。寒々しく、うらさびれた風景は、それだけで身の危険を感じさせる。世界のどこかで、怪奇な事件はひっそり起こり、ひっそりと解決している。勿論、解決していない事件もあるだろうが…。誰も知らないところで、事件は起きているのだ、という感じ。巷間に広まりそうで広まらない、そんな程度の不気味さが、身近な恐怖としてはちょうど按配がいいのではないか、と思う。

監督 山本迪夫/東宝/1971/