眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「GONINサーガ」 感想

前作で死亡した、大越組・幹部の鶴見辰吾の一人息子が、東出昌大に成長。堅気の暮しをしていたが、運命の歯車は、次第に彼を19年前の因縁に結びつけていく。

ネタばれしています。


映画の前半は、人物整理と説明に追われて、汲々としている印象。どこにも、誰にも感情を込められないまま、ただただあらすじを追いかけているような、そんな荒っぽさ。東出の母親が井上晴美(かっこよかった!)で、彼女は19年前に汚名を着せられた夫の仇のため、大越組経営の闇金に突撃。その後自殺にみせかけて殺されてしまう。ここが、主人公たちが動き出すきっかけとなり、やっと映画らしいリズムと濃密さを感じさせるようになる。

しかし、前半で説明に時間がかかったせいもあるのか、どうも主人公たちの心情に迫りきれていない感じが強い。東出、桐谷健太土屋アンナの3人には、非常に淡くはあっても恋心に似た感情がないわけではない。土屋を食い物にしている安藤政信にしても、彼女のことを今でもいい女だと思っている節もある。その安藤と、父親テリー伊藤との確執。殺し屋の竹中直人と福島リラの関係も気になる。そして、昏睡状態から目覚めて、ヤクザ共への復讐心をさらに募らせる根津甚八

話が次に移るとき、強引にフェイドアウトするところが多い。大変せわしない。時間内になんとか収めようとしているようで、余裕のなさを感じさせてしまう。またそれは、余韻のなさにも繋がっている。

物語が前作を引き摺る分そこに縛られてしまい、大きく弾けきれない内向きなものになっていることも、物足りない要因のひとつかもしれない。因縁が収束するという、結局、収まるべきところに収まってしまうスケールの小ささに、内輪だけの盛り上がりという印象を持ってしまった。勿論、それらは考慮済のことであり、この映画を好きだという人は、そこがよいのだ、というだろう。それを否定するつもりはないし、個人的には嫌いな映画ではないのだが、物足りないものは物足りない。惜しかった、と思う。

予算的にもそれほど潤沢ではなかったのではないか。特に、クライマックスの披露宴のパーティーの場面に漂う、華やかでもおしゃれでもない空気。寒々しい中で殺し合うのを撮りたかったのだ、と言われればそこまでの話だが、ワルツを踊る中での殺し合い、美しく幸福な者とどん底の者の対比は、画面の厚みがあればこそ描き出せるのではないか、という思いがある。あの寒々しい工事現場のような空間では、生きてこないのではないか。

若手俳優陣では、柄本祐が頭一つ抜け出すうまさで目を瞠る。声をきちんとコントロールし、はっきりとしゃべり、そこに感情をのせるという芝居らしい芝居。冷静さと平静さ、裏側に滾っている激情と、実に巧みに演じていた。今作の収穫。それは土屋アンナにも言える。役と彼女の個性とが合致しているということもあるが、殺し屋に追いつめられていく辺りの不安感も、闘いの中でみせる気丈さと柔らかさもいい按配。何よりも、実は彼女がこの物語を締める役割なのだ。ラストの彼女の姿には、全部終わったという安堵、これで終わりかという無念、ひっくるめて、あきらめたようなものが窺える。全員死亡の死屍累々の惨状に、奇妙な詩情が浮かぶ瞬間は素晴らしかった。根津甚八は、病をおしての出演だったが、体力的にやはり無理なようで、かなり存在があやふやなものになってしまっている。そこまでして出演することもなかったような…と思っていたのだが…。

クライマックス、一人高笑いする安藤政信の前に、車椅子に乗った根津甚八が近づく。が、拳銃を握った右手が、なかなか持ちあがらない。すると、横から誰かがすっと手を差し伸べる。「氷頭さん」という声と共に、横に膝をついて根津の腕を支えるのは、佐藤浩市!思わず「あっ」と声が出そうになる瞬間だった。幽霊かと思われるその姿は、その娘である土屋アンナの見ているものだ。彼女が見たものだ。いや、もしかしたら根津も、安藤も、佐藤浩市をみたのかもしれない。が、直後には全員死んでしまうので、そこははっきりしない。しかし、そのときに頭に浮かんだのは、実は、全員とっくに死んでいたのでは…という想像だった。銃弾が飛び交う局面は多く、その中で誰もが一発二発くらっていても、何もおかしくない。徐々に死に向かっていてもおかしくない。根津が床下で突然消えてしまうのも、柄本がどてっぱらに銃弾をうけながらもそのあと数日生き延びるのも、桐谷が安藤に死にそうなくらい殴られ蹴られしたのに、その後のシーンで平然としているのも、高所から落下した竹中直人がしぶとく追いかけてくるのも、みんな死んでいたから出来ることなのでは…。あの場に残った者たち(菅田俊とか伊藤洋三郎とか)は、既に死ぬことが決定づけられた者たちだったとするのなら、やはり既に死んでいるのと同じことではないのか。東出が切り裂いたスクリーンは、こちらとあちらを隔てる扉だったのだ。死者たちの集う、冥界の入り口。死んだ者と(かろうじて)生きている者が殺し合うという、その差が曖昧で、ねじ曲がった空間があのクライマックスだったのだ…。死ぬことでしか、人生に決着を付けられない人々がみた、最後の夢だ。石井隆映画には、魂が抜けだしてしまう場面や、これ、もう死んでるよね?という場面がよく描かれる。しかし、ここまで大人数が巻き込まれてのカタストロフは、おそらく今までにないだろう。そういう意味では、ひとつの集大成になるのではないか、と思った。そして、根津甚八は、必要だった。氷頭は目覚める。目覚めたことが、死への入り口という皮肉は、氷頭を演じるために起き上がり、これが最後の演技だとする根津の人生とあまりにも重なったものになっている。その怨念の如き演技への執念は、そのまま氷頭の執念へとスライドされている。映画を成立させるために、人の人生を映画の中に塗り込める。氷頭は、身を持って、GONINの世界を閉じる。そのためには、根津甚八の存在が必要だったのだ。残酷な夢だ。だがそれが、映画人の業、というものでもあるのだろう。

やるべきことは、徹底してやる。描きたいことは、30年前からひとつも変わっておらず、ずっと同じことを描き続ける作家、石井隆の面目躍如。圧巻としか言いようがない。映画として煮え切らないところがあっても、そのしぶとさの前では、全てが組み伏せられてしまう。作っているものに情念が滲み出すとでも言おうか。そんな特異な立ち位置で映画を作るのは、今の日本には、他には宮崎駿しかいないのではないかと思う。

良く出来た映画を求める観客の望むものは、おそらくここにはない。ただ、異様な熱を帯びた悪夢を見せてくれるのではないかとは思う。だからこそ、映画は面白いとも言える。「ヒロイン失格」をみて大喜びの女子高校生の皆さんも、ぜひとも、こちらに少しでも関心を持っていただけたら幸いです。「ヒロイン失格」とは全く違う映画の有り方を知ってもらえるのではないでしょうか。女子高校生は、こんなブログには来ないけれど。

死んだと思われた竹中直人が現れたとき、何かを袋に入れて持ち歩いている。あれは福島リラの生首、と考えるのが妥当だ。だが、全員既に死亡かと想像したら、最後に竹中直人が倒れて、袋からごろりと転がり出た生首が土屋アンナのものだった…というのも面白かったかもな、と思った。

脚本・監督 石井隆/2015/TOHOシネマズなんば・別館で