眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「ヴィジット」 感想

ベッカとタイラーの母は、若い頃に家出した。その母を、ネットで見つけた両親から連絡があった。姉と弟は、祖父母の家へとお泊りに出かける。幸福な一週間のはずだったが、思いもかけないことが皆に待っていた…。という、ホラー・サスペンス。

思い込みで、映画がつまらなくなる可能性がある。二つの注意点について書いておく。
一つ目。おばあちゃんの家に、「3つの約束」などない。「9時半以降、部屋から出ないように」というのは、お祖父さんとの会話がある。しかも「出るな」ではなく「出ないということにしないか?」という提案だ。姉と弟は「出ない」理由に、ちゃんと納得しているので、理不尽な話ではない。「楽しく過ごすこと」、「遠慮なく食べること」と合わせて、まるでこの3つが、物語に大きく関係しているような予告編だが、完全に、宣伝上の嘘っぱちである。ここに踊らされると、映画を見誤ることになってしまう。配給が東宝東和なので、社の伝統にのっとった宣伝と言えなくもないが…。
そして二つ目。脚本と監督が、M・ナイト・シャマランであるということ。予告編のラストにもさらっと出て来て「もう騙されている」などと本人が煽ってしまっているのもまずいのだが、「シックス・センス」のラストの衝撃は、世間から未だ消えておらず、そのため多くの観客があれと同等のひっくり返しを期待してしまう。が、今回も、勘のいい観客には、それほどのレベルのものではない。こんな宣伝ではなく、シャマランでもなかったら、という想像は不毛でしかないが、しかしそれならもう少し好意をもって迎えられたのではないか、と思ってしまった。

以下、ネタばれ前提での感想を書いています。


最初は、祖父母もかなり高齢なので、いろいろとトラブルがあってもしょうがない、という目で姉弟は接している。が、それだけでは済まないようなことが起き始める。この、徐々に、という部分が、ホラー映画としては重要。シャマランはさすがに、その辺の凡庸な演出家とはレベルが違うので、じわじわと描写を積み重ねることで恐怖を高ぶらせていく。微妙な違和感とズレは、映画が進むに連れて、次第に大きくなっていく(その間にも、煽るだけ煽って何もない、という外し方を仕込んでみたりする(オーブンのくだりとか)、観客の心を弄ぶいじわるも忘れない)。面白いのは、いわゆるどんでん返しと称されるような意外な展開は、クライマックスでも、結末でもないところに置かれていること。クライマックスの前段として、それは明かされる。姉と弟にとっての、本当の地獄はそこからで、果たしてどうなるのかという緊迫のクライマックスを迎えることになる。特に今回は、どちらかといえば、アンチクライマックスな様相を呈することの多かった作品と比較すると、格段に盛り上がる、クライマックスらしいクライマックスになっていることには驚いた。これも狙いかもしれないが、商業監督、職人監督として、こなれてきたということなのかもしれない。

タイラーは、フットボールの試合の大事な局面で棒立ちになって父を失望させた。ベッカは、鏡に映る自分を見ることが出来ない(二人が語るこれらの場面の撮り方は、他の場面以上にシリアス。この作品の一番の肝はは、実はここだということか)。これらの心の傷は、直視出来ない現実であり、父親との離別というところにその元がある。トラウマというべきそれらが、クライマックスで彼らをギリギリまで追い詰める。が、過去のシャマランの映画もそうだったように、ここでも極限を越えることで、それを振り払う姿が描かれることになる。そして、それが最終的には、家族の物語として決着する。これも、いつものシャマラン映画らしい。「シックス・センス」の母と息子、「アンブレイカブル」の父と息子、「サイン」の一家、「ヴィレッジ」の父と娘、「ハプニング」の夫婦。どれも底に流れているものは同じものだと思う。シャマランを、ハッタリやこけおどしで観客を煙にまく詐欺師まがいの映画監督、というのもあながち間違いではないが、それだけだと、真摯に家族の愛情について語っている部分が抜け落ちる。また、映画を盛り上げるための丁寧な作劇についても、後回しになってしまいがち。世間の評を目にするとき、それが、いつも悔しく、もどかしい。

母が心に負っている傷のために、ベッカは、それを癒すための「万能薬」として、祖母から「許す」という言葉を引き出そうとする。激昂する祖母をなだめ、例え話にすることで、祖母は「許す」というのだが、これは後から考えると、何に対して「許す」と言ったのだろう、と考えることになる。彼女は、子供を殺しているらしい。その子がもしも帰って来たとしたら…。そこにあるのは、後悔なのか、怒りなのか。彼女がどう思って「許す」と言ったのかは、判らない。他人には見透かすことの出来ない、心の深い部分を想像させる。認知症精神疾患という、直視しづらいものが目の前に迫って来る映画であり、しかも恐怖の物語として、そこには遠慮なく、かなり非道な描き方がされている。恐怖を覚えながらも、一方に、悲しみを感じずにはいられない複雑な思いも残る映画であった。

今回は、ホラー映画としてはごく普通の表現方法となった、POV方式による語り。姉は映画作りにはまっており、彼女が作っている映画のメイキングとでもいえそうな形で映画は進んで行く。巧みなのは、カメラが1台ではなく、場合によっては2台使うこと。床下で何者かに遭遇する場面などは、それが有効に生かされている。1台という縛りだと、見えないことがどうしても出てくるが、この映画ではそのフラストレーションは無い。見せないことで恐怖を表現するのがPOVの勘所のひとつだが、ここでは、観客が見たいと思う物は、おそらくすべてが目の前に出てくる。姉が、「手と手を重ねたショットに、母の好きな音楽を流して、ここにいない母の存在を強く感じさせて…」と演出テクニックを語る場面があるが、そういう婉曲的表現は、この映画には無い(というものの、地獄の家から逃げ出した二人の前に母が駆け付けるところに、この母の好きな音楽が流れる。うまい)。全部見せる、ということに徹底している。なかなか見えないのは、事の真相である。が、それは実は目の前にある。形はないが、画像にも、事実として映っている。全てが見えるように作られている中で、一番重要なものは見えていない、というところの面白さ。また、この作品が、最終的には、ベッカのつくった作品として完成していることも面白かった。ラストシーンの、トラウマから解放された二人の姿から想像すれば、こんな恐ろしい内容であっても、形にすることは出来るのだろう。どえらい神経の太さ。でもその楽観的なところが、陰惨な内容を救ってくれる。タイラー(というよりTダイヤモンド)のラップには笑ってしまった。笑っていいのかどうかという微妙なユーモアも、シャマラン映画の面白さだが、今回はタイラーがかなりストレートな笑いを担っているのもいい感じ。悪態をつくときには、女性シンガーの名前を叫ぶ、というのは良かった。あんなところでも「ケイティ・ペリー」とか。

ベッカを演じるオリヴィア・デヨング、タイラーを演じるエド・オクセンボウルド、ふたりとも凄く良かった。オリヴィアは、色んなことを考えて、多少頭でっかちになりがちな年頃の感じが良く出ているし、エドは、調子に乗り易い子どもっぽいところを、良く掴んでいる。シャマランは、子どもの演技指導という点でも優れた演出家だったな。祖父のピーター・マクロビーも、祖母のディアナ・ダナガンも、平常時と感情高ぶるときと、演技の振り幅が素晴らしい。無名俳優の起用が、いい方に作用していて、見応えのある芝居だった。子どもたちは、これから出演作が増えるかもしれないね。

しっかり作ってある映画はやはり良い。特に、安易なPOVホラー映画は、この映画に少しは学んでいただきたいところ。

脚本・監督 M・ナイト・シャマラン/アメリカ/2015