眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「クリード チャンプを継ぐ男」 感想

〈あらすじ〉施設で喧嘩ばかりしている少年アドニス。ある日彼の元を訪れた女性は、「わたしはアポロ・クリードの妻だった。あなたは、アポロが残した忘れ形見。わたしと一緒に暮さない?」と誘う。時は流れ、一人前に成長したアドニスだったが、体に流れる父の血がそうさせるのか、メキシコまで遠征してボクシングの試合を重ねていた。ついにはプロボクサーになるために、仕事もやめてしまう。が、地元では誰にも相手にされない彼は、フィラデルフィアへ向かう。かつての父のライバル、ロッキー・バルボアに教えを乞うために…。

本国では健闘しているようだが、その熱は、日本には全く及んでいない。「007」と「スター・ウォーズ」と「妖怪ウォッチ」にうずもれてしまい、ひっそりとした公開になっている。この、深く静かに潜航した興行や宣伝では、「ロッキー」シリーズが好きだという人に、情報がちゃんと伝わっていないのではないか。それが心配である。この映画のことを知らないファンも、「アポロの息子が、ロッキーをトレーナーに、リングに上がる」という概要程度の知識しか持っていないファンも、 またロッキーの扱いが軽いスピンオフ映画だと思っているファンも、観に行かなければ絶対に後悔することになりかねない。一般観客はどうあれ、「ロッキー」シリーズのファンには絶対に見逃してほしくない。

特に、事前情報として伝わる「スピンオフ」という言葉をうのみにして、ロッキーの登場はゲスト程度のもの、と思っている人がいたら、それは大間違いだと言っておきたい。確かに、新たな人物を主役にした新しい物語だが、同時に「ロッキー」の終章、エピローグと呼んで差し支えのない内容であり、「ロッキー・ザ・ファイナル」の延長上の物語である。主役がアドニスに移ってはいても、映画はロッキーの物語として完結していく。言わば、正当な続編なのである。

以下、ネタばれ前提での感想を書いています。




「ファイナル」から9年という時間が過ぎていることもあり、色々とショックなことが描かれていく。まず、ポーリーがもういないということ。エイドリアンに「兄さんは豚よ!」とまで言われていたあのろくでなしが、もういないのである。お墓はエイドリアンの横。二人の墓の前で、ロッキーが椅子に座って新聞を読む場面の、何とも言えないこの気持ち。自然と涙が出てしまう。アドニスがロッキーと同居するとなったとき、ポーリーの部屋を使えと言われる。ロッキーは、ポーリーの部屋をそのままにしていたのだ。ロッキーは、彼を「親友だった」という。妻の兄貴ではなく、あくまでも親友だったのだ。そのことにもまた、グッとくる。

息子は、一緒に暮らしていないどころか、彼女とカナダに行った、ということも判る。「ファイナル」では和解していたが、それでもなおロッキーの息子であることのプレッシャーは大きかったのかもしれない。それを誰が責められよう。アドニスが現れるまでは、それはロッキーにとって苦い経験であったろう。だが息子がいたからこそ、アドニスがやろうとしている、父を越えることの過酷さを身を持って理解出来るのだ。息子に対する贖罪の気持ちも、そこに重ねられている。

幼い息子と二人でボクシングのポーズを取っている写真が出てくるが、あれはスタローンの息子のセイジではなかったろうか。だとするのなら、カナダへ行って今はもう会えない息子という設定の裏には、若くして世を去った自分の息子が重ねられていることにもなる。「エクスペンダブルズ2」で若者が死んでいくのを目にしたときと同じく、演技とは思えない暗い表情にみえてくる。

そして決定的にショックなのは、ロッキーが悪性腫瘍の宣告を受けること。年も取ったのだから、病気にもなる。だが40年間に渡って、観客はロッキーという男の人生をみてきた。だからこそ、これは我が事のように辛いことであり、死が迫っていることを前にして、過ぎ去った時間を強く意識させるものとなる。観客にとっての40年も、リアルなものとして立ちあがる。振り返らずにはいられなくなる。その動揺は、他人事ではない。

…といったロッキーの人生を踏まえて、映画はアドニスの物語を語っていく。アドニスが進む道は、ロッキーが歩んできた道と同じでもある。父と持たない男と、息子を失った男。双方の感情が、相手を敬いながら寄り添っていくのが素晴らしい。

聴力を次第に失っていくアドニスの恋人も、ロッキーやアドニスと同様の、喪失という過酷を生きて行かねばならない。更には、アドニスの対戦相手となるボクサーもまた、収監されることが決まっている。7年間、彼は妻と子から離れて暮らすことになる。何かを失っている人たちが、出会い、ぶつかり合うことで、その先に再生を見出す。40年という、リアルな重みを持った映画だからこそ、そこにさまざまな人生を重なることが可能となり、絵空事にならない感動に着地していた。

過去の作品を思い出させる場面が、ここでも繰り返されるのは、ファンサービスでもある。が、過去を踏まえることの重要性も感じる。過去を過去のものとはしない、畏敬の念がそこにあってのこと、とみる。過去を懐かしむだけではなく、随所にマイナーチェンジやアップデートを加えて行く姿勢こそが、本当のリスペクトだなあ、と思わせられる。今回、脚本も監督も、スタローンはタッチしていない。ライアン・クーグラーは、「ロッキー」的な正攻法な見せ方のなかに、どこか冷ややかさを湛えた作りにしており、これまでとは違う映画に仕上げている。ピンポイントで一場面をあげて、「焼き直し」というのは簡単なことだが、そんな映画ではない。

試合の場面は、ほとんどワンカットに見える撮り方がされているところがあり、これは圧巻。無論、CGによる加工がなされているのだろうが、段取り的にはかなり面倒な作業なのではないかと思われる。途切れることなく試合経過が描かれるなんて、これは否が応でも盛り上がろうというもの。加えて、まさかのビル・コンティ。クライマックスで「going the distance」が流れてくるなんて、想像していなかった。これはずるい。ほとんど条件反射で泣いてしまう。

最終ラウンドで、ロッキーは、アドニスにもうやめようという。そして、どうしてそこまでしてやるのか、と問う。アドニスの答えは「俺は、父親の過ちじゃない」。愛人に産ませた子ではない、俺はアポロの息子だと、闘い抜いて勝てば、胸を張ってそう言えるのだ。1作目で「最後まで立っていられたら、俺はただのチンピラではないと証明出来る」と言ったロッキーの言葉がよみがえる。自分の存在の証明、そのために戦う!これに泣かずにいられるか。

映画の端々に、落涙決壊するためのスイッチが忍ばせてあるので、映画も後半に入ると涙をふき取るのが面倒になるほど。ロッキーファンのための映画だと言われてもいいが、なればこそ、ロッキーが好きだという人には、是非とも劇場に足を運んでいただきたいところです。

監督 ライアン・クーグラー/CREED/2015/アメリ