眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

朗読CD 「驟り雨/朝焼け」(新潮社)

藤沢周平の短編二編。語りは柳家小三治

「驟り雨」
<あらすじ> 研ぎ師の嘉吉は、実は盗人でもあった。その日もある家へ入る算段をつけていたところ、あいにくの雨に降られる。近くの神社の境内で家の様子をうかがっていると、そこに人影が…。

都合、三組の男女が、嘉吉の前に現れる。どこかの大店の若旦那とその女中、やくざもの、そして病んだ母親と幼い娘。現れるといっても、嘉吉は、軒下を回って姿を見られないようにしているので、見るともなしに、聞くともなしに、様子をうかがうという感じになる。小三治師匠の語りは、絶品といってよろしいのではないか。それぞれの人物を巧みに演じ分けるのは勿論だが、情感をじっくりとにじませる間の取り方も素晴らしい。もはや名人芸。そんなことは言うまでもないのだろうが。世間を恨むどす黒い感情を秘めた嘉吉が、不幸な母子の姿を見るうちに、次第に心を解きほぐされていく様子に、感情移入してしまう。照れと本気が混じり合う嘉吉の顔が、闇の中に見えてくるようだ。

「朝焼け」
<あらすじ> 新吉は賭場で作った借金を返すために、かつて捨てた女・お品を頼る。借りた金でさらに遊んで文無しになった新吉は、賭場の主から、ある男を脅してくれたら、チャラにしてやると言われ、しぶしぶその仕事を引き受けるのだが…。

ちょっとした気の迷いや、魔が差した一瞬のために、転落する人生。新吉の駄目っぷりがいやになるのは、駄目な行為そのものよりも、駄目な自分を諦め、捨てている、そんな弱さがやけにわが身を振り返させるところがあるからだろうか。しかも、捨てた女は、今もずっと自分のことを好いていてくれた。それが判ったところで、今更どうしようもない。自業自得とは言え、何も得られず、救われない。悲惨で行き場のない結末と、美しい朝焼けという対比が、悲劇を際立たせる。泣いても悔やんでも、取り返しはつかない。だが、そんな中でも朝焼けは美しい。何より、無くしたものは、何にもまして美しい。それを確信したときには、全ては遅すぎたのだ、という無常さ。新吉のどうしようもなさ、屈託のなさすら感じるお品の健気さを演じ切る小三治師匠は、ここでも素晴らしい。周囲の人物の演じ分けも鮮やかで、賭場の客の調子のよい軽さもお見事。朗読と落語の親和性は、俳優によるものとは、また違う物に思える。俳優よりも噺家の方が優れている、ということではなくて、舞台上で一人で多くを演じるという落語の形態が、朗読に向いているということなのだろう。

夜に寝ながら聞いていたが、入り込んでしまって寝るどころではなかった。ただただ「素晴らしいなあ」と唸るのみである。それぞれの最後に入る「夏は来ぬ」のメロディが蛇足だった…。あと録音は、休憩をはさみながら行われたと思うのだが、急に声のトーンが上がったりして、流れとして不自然になっているところがあるのが勿体ない。ディレクターのミスだと思う。

朝焼け/驟り雨 [新潮CD]

朝焼け/驟り雨 [新潮CD]