眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「ザ・プラマー 恐怖の訪問者」 感想

監督/ピーター・ウィアー

あらすじ
突然やってきた配管工のマックス。延々居座って、勝手にシャワーを浴びたり、くだらない話をしたり、パイプの交換には時間がかかると、おおがかりな道具を持ち込み、そのくせ一向に工事は進まない。部屋の主であるジリーは、次第に心理的に追い詰められていく。

以下、結末に触れています。


感想
ピーター・ウィアーの初期作でテレビムービー。ランニングタイムは76分程度。放送枠は1時間半くらいだったのだろう。短いがゆえに、心理的な恐怖感や圧迫感が減じたり停滞することなく描かれる。

マックス(アイヴィー・カンツ)の無遠慮な行動が、見ている側にとっても不愉快であり、それはジリー(ジュディ・モリス)同様であるが、しかしジリーに対しても決して共感が出来るわけではない。今の感覚と少し違うのかもしれないが、不審者に対してあまりにもガードが緩すぎる。突然、配管工事です〜と言って来られて、はいそうですかと修理を頼むだろうか。それに、そんなに不愉快でおかしいと思うのなら、部屋を出ればよいし、配管工が本物か確認してもらうことも出来るだろうし、なんなら最終手段として警察を呼ぶことも出来るだろう。だが、彼女はそれをやらず、イライラを募らせていく。見ている側としては、マックスにも、ジリーにもイライラさせられて二重にイラつくのだが、忘れてはならないポイントが二つある。

ひとつは、最初に、ジリーがビチューマンと呼ばれる妖術師と一緒に過ごしたことがあるという話をしていること。彼女は、ビチューマンを理解しようとしたが無理だったと、夫に話している。つまり、理解の範疇を越えた存在を御しきれない人、と言うことはこの段階で説明されている。民俗学だか文化人類史だかの研究者(?)なのに。

加えてもう一つは、外に出るのは嫌だ、と夫に言っている場面があること。外に出たくない(字幕では、妻を学者にして外に出したいのか、という感じだった)、家に妻がいる生活をしたい、と。何故そう思っているのか、詳しいそれ以上の説明はないものの、部屋にいることに対して強い思いがある、という点。ウーマンリブ以降の時代なのに、少し後進的な意見のように思えるが、そういう問題ではないのかな。あるいは、この時代にオーストラリアでは夫婦の共働きが常識になっていた、なりつつあった、そういう背景を示す台詞だったのだろうか。

ジリー以外の人たちは、配管工に対してそれほど嫌悪感を持っていない。エスカレートする工事を、半ば笑いながら「しょうがねえな」くらいの感じで受け取っている。だがジリーは、他人種の人とのコミュニケートに失敗している人間である。育ちも環境も何もかもが違うマックスに対して、根本的な部分で受け付けない感情を持っていたのではないか。夫が部屋に連れてくる学者たちの中にも、インド人と、アフリカ系の人がいる。インド人の方は高名な研究者のようである。この食事と、バスルームでインド人学者が洗面台の下敷きになる場面は、イライラが募って心理的にきつい展開の中で、唯一ほのぼのとした笑いがこぼれるところだが、注目したいのは、その後、夫と学者たちが会話しているときだ。疲れていることもあったろうし、専門外ということもあろうが、彼女は寝ているのである。皆が、愉し気に会話をしている横で。これが作り手の意識的な描写であるのなら、おのずと彼女の立っている位置が見えて来はしまいか。

さらに、彼女は家を守ろうとしている。夫がジュネーブに留学出来るかも言い出したことで、夫婦関係の危機も感じている。夫婦関係の象徴が家という存在であるかのように。「ここは私の家だ」とつぶやく場面もある。他人に対する警戒感、他人が家にいることの不安感、その両方をジリーは常に抱えている。もう一つ加えるのなら、おとなしそうにみえて、突然激昂することがあるということ。そういう人間が、傍若無人とも受け取れるマックスの行動を、自分の生活を犯す怪物と考えるのも仕方がないことだとは言えまいか。そして激昂に繋がる感情の不安定な高ぶりは、マックスを、生活圏を脅かす存在として忌避し、ついには罪をかぶせて逮捕させる。理不尽で不条理な物語であり、それは普通に考えればジリーが経験する不条理と思えるが、視点をずらすと、マックスにとってのそれだったのではないか、とも思える。そう思う方が、ジリーの不条理よりもずっと恐ろしいのではないか…。

延々と書いてきたが、実は、冒頭部のビチューマンに関する会話がすべてを語っている。

「彼とはいつ出会ったの?」「あなたの留守中」「それで?」「私のテントに来て歌ったり叫んだり」「驚いた?」「人里離れた所だもの。彼は恍惚状態だから、驚かさないように私じっとしてたわ」「長時間?」「夜明けまで。そしたら変なの。わたしも何かしなくちゃと思って、ミルクのおわんを手に取ると頭上にかざし投げつけた」「彼は?」「子供みたいに叫んだわ」(名画愛蔵区枠での放送だったためか、字幕翻訳者の表示なし) 

その後、この話は、ジリーとマックスによって再現される。ラストの、マックスを見下ろすジリーの顔が、なんとも冷ややかで感情がないところにゾッとさせられる。閉鎖的な上にセンシティブすぎる人間が、多人種との理解を得られないまま自分を被害者と思い、不幸を招く。単なる招かれざる隣人ものと思って見ていると、それだけではなく、人種差別的な色合いも見えてくる。ビチューマンや先住民や人種多々の学者たち、そこに託されているものとは、実はそういうことなのではなかろうか。考え過ぎだろうか。

他にも不思議な場面がある。ジリーと友人のメグがヨガに行く場面で、「私は私」のフレーズが出るが、後にマックスも「俺は俺〜」といって歌い出す場面がある(ここはあまりにもシュール過ぎて笑ってしまう)。ジリーは、このどちらのフレーズからも逃げているのが気になるところだ。ヨガにはあまりはまれず、マックスの歌にも怯えている。あの怯えは、怪物ががなっていることへの恐怖ではなく、詩の内容に対してなのか。繰り返される同一のイメージが意味するものは、何だろうか。自分という存在を注視せよ、ということなのか。自分を深く見つめたとき、ジリーはそこに何を見たのだろう。その見たものが、この映画の結末なのだろうか。

ジリーがエレベーターですれ違うのが日本人らしかったり(「僕そう思うなあ」という台詞が聞き取れる)、メグが、背中に「寿」の文字が躍るJALのはっぴを着ていたりと、妙なところに日本の影がある。スタッフか関係者に日本人がいたのかねえ。

THE PLUMBER/オーストラリア/1979/