眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「サード・パーソン」 感想

脚本・監督/ポール・ハギス

あらすじ
パリで小説を執筆中のマイケル(リーアム・ニースン)は、作家志望のアンバー(オリヴィア・ワイルド)と不倫中である。ローマでは、デザインを盗んで服を仕立てさせるインチキ服飾ブランドのスパイ、スコット(エイドリアン・ブロディ)が、たまたま立ち寄ったバーで隣り合わせたモニカ(モラン・アティアス)に気を引かれる。夫リック(ジェームズ・フランコ)と息子の親権をめぐって争っているジュリア(ミラ・クニス)は、ままならぬ息子との再会にやきもきとしつつ、ニューヨークのホテルで客室係として働いている。共通するのは、子どもの存在。子どもを通して、彼らの人生はどう変転していくのか。

以下、結末に触れています。

感想

ジュリアが書いたメモの裏に、マイケルがメモをする場面で、あれ?室内の感じが違うし、ジュリアの話はニューヨークじゃなかったっけ?と違和感を覚えた。勘違いかなと思いつつ最後までみたら、その違和感は間違いではなかった。解釈がいろいろと出来そうで、脚本監督のポール・ハギスもやはり観客自身に結末の意味を想像してほしいとして、明確な答えを避けているようである。ならば、好きに解釈する。

事実は、息子を溺れさせ死なせてしまったということ。これだけではないだろうか。劇中描かれたことは、現実のマイケルの感情が複雑に重なった、彼の描いている小説だった、と。

恋人のアンバーが父親と関係を持っている、というのは、マイケルと息子の関係の別の描き方ではないのだろうか。小説の暗喩なら、普通に行われるだろう。娘と父という点では、アンバーとマイケルも父子ほど年が離れている。娘のような女性を抱く、ということに何も意味はないと言い切れるか。いや、現実のマイケルと恋人が実際に年の離れた関係であったとしても、現実のマイケルは彼女に自分の子どもを重ねたりはしないだろう。だがこれは小説内の物語である。そこにダブルミーニングとしての意味を持たせることはごく自然なことであろう。現実のマイケルと息子の関係を、父親とアンバーの関係に置き換える。父から子への虐待の表現として、近親相姦が題材として取られる。小説内のマイケルはアンバーを愛し、庇護し、当然ながら彼女を抱く。だがアンバーは、現実における息子と同じ意味の存在である。我が子を抱く親がいるか。小説内のマイケルは二重にアンバーを傷つけているのだが、小説内でアンバーを救うことは、息子への贖罪に連なる。しかし彼女と関係を続けることは必然的に、虐待を続けるという意味になってしまう。マイケルが、アンバーと父親の関係を暴露するような小説を書く、というのは、息子を死なせたのは自分だという告白の言い換えなのではないか。彼は、これによって二人の関係を終わらせようとする。彼女を傷つけてまでも。そして彼女は、小説内のマイケルの元を去る。

小説内人物は、現実のマイケルから重ねられたそれぞれの役割を果たし、解放に向けて進みだす。その結果、小説内人物は画面上からきえていく。それは現実のマイケルの感情が、自分を赦すというところへ向かったということ(すべてを小説という形で語るということ)と解釈してよいのだろう。スコットの妻(マリア・ベロ)やリックのように、怒りを託された人物たちが、元のパートナーを赦し前向きになるのは、現実のマイケルが赦してほしいと懇願しているわけではなくて、おそらく存在していたはずの現実の妻(元妻かもしれない)に強く生きてほしい、というメッセージなのだと思う。スコットとモニカの関係だけが、劇中でハッピーエンドのように見えるが、そこには、現実のマイケルの願いが託されているのかもしれない。こうであればよかったのに。あるいは、この先、こんな風に思えるようになれたらいいのに、と。しかし、小説内のマイケルは、最後に、アンバーを追いかけて見失い、ジュリアを追いかけて見失い、モニカを追いかけて見失い、街の中で呆然とする。振り返ると噴水のへりに座る男の子の姿…。繰り返し書くが、これらは、小説内の話である。現実ではない。恋人が父親と関係を持っていたということ自体も創作である可能性がある。中で描かれたことはすべて、現実のマイケルによる小説であり、現実はひとつもない。あくまでも現実をベースとした心情を、小説に仮託して語っているということなのだろう。彼は、小説を通してしか感情を知ることの出来ない人物なのだから。

そもそも、よく考えてみれば、目を離した隙にプールで溺れて死んだというからには、その子は相当小さかったはずである。最後に出てくる子どもも、とても幼い。しかし、それにしては、マイケルとその妻(キム・ベイシンガー)はいかにも年を取りすぎている。彼らには、あんな小さな子どもは年齢的に合わない。勿論、高齢出産だった可能性はある。が、彼らが子を失ったのは、もうずいぶん前の話だったのではないか。マイケルは、若い頃に子を失い、その後ずっと後悔と自責の念に縛られて生きているのだ、と。

小説を書き上げた現実のマイケルは、背後に「見ててね」という声を聞く。これは意味深長である。映画は、現実のマイケルが小説を書いているところから始まる。そしてふと、背後に「見ててね」という声を聞く。ここから映画は、小説内に入っていく。始まる前の「見ててね」という言葉を、観客は、マイケルを縛り付ける、自分が聞いたであろう、我が子の最期の言葉として見ていくことになる。だが、映画の最期の「見ててね」に、観客は、「僕のことを忘れないで」という子どもの願いのようなものを感じないだろうか。その瞬間、マイケルは救われたのかもしれない、と。小説という形で自分の気持ちは吐き出したけれど、だからといって、全てが許されたわけではないのかもしれない。その呪縛は、この先もずっと続くのだ、という厳しさを感じさせながら、そこに我が子からのメッセージが届いたようにも見えるのである。

その結論は、「サード・パーソン」に委ねられている。赦しは、自分で得られるものではない。他者によって与えられるものではないのか。サード・パーソンとは、小説を俯瞰からみている現実のマイケル(三人称視点=いわゆる神の視点)のことであり、また彼に赦しを与えられる人物としての第三者ではないのだろうか。即ち、このドラマをみていた観客である。あなたは、彼を赦しますか?という問いかけを残して、映画は終わるのである。

この解釈が正しいわけではない。人それぞれ、思うことは別である。

THIRD PERSON/イギリス=アメリカ=ドイツ=ベルギー/2013/