眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

孤独を感じる人間の今後の生き方について

思えば、人から必要とされたという経験がほとんどありません。「あなたを愛してします」「あなたが大好きです」「お前は親友だ」「お前といると最高に愉しい」「君がいてくれて本当に助かる」などなど、相手に対しての愛情表現や感謝の言葉を、受けた記憶がほとんどないんですね。まれに言われても、普段そんなことを言われ慣れていないので素直に受け取れないんですよね。また口先だけでしょとか、心にもないことをとか、そんな風に冷笑的にとらえてしまうんですよね。で、実際、言った人も本気じゃないと思うんですよね。そもそも、世間や他人に対して、褒められたり感謝されたりするようなことを一切していませんからね。そりゃまあ、言われないですよね。しかも性格が内向的で、社交的でもないとなれば、付き合う人の数も限られますし、褒められる機会はますます減りますね。そんな風にしてこの50年を生きて来たんですよね。で、誰にも愛されず、感謝もされない人生だな、と気付くわけですよ。一番身近な妻の言葉さえ信用しきれていませんからね。「愛している」とか「好き」とか「大切に思っている」とか、全ての言葉が軽く感じられてしまうんですよ。普段の妻の言動や行動に、愛情を感じられないからですね。そしてそれは妻の言うことが信用できない、という形にスライドするので、(妻の)実家の人たちは、わたしに好意なんてないでしょ、というときの妻の答えである「そんなことないよー」も適当な言葉にしか聞こえないわけで、そこで、「やっぱりわたしは実家の人々に好かれていない」という答えを頭の中に立ててしまうことになるんです。もしも本当に大切だと思っているのなら、こちらからその答えを要求しなくても向こうから積極的に言葉で表さないとダメだと思います。言葉で、ということが大切なんだなと思います。心の中で思われてもダメなんですよ。はっきり言ってもらわないとダメなんですよ。そういう経験がないために、わたしは自己肯定感が低いんでしょうし、愛されず求められない人間だという認識で、自分を作ってきたんですよね。すべての理由を他人に転嫁するのもよろしくないでしょうけれど、まあ子供の頃からのもろもろが積み重なり繰り返される中で、幸福感の薄い、充足感のない人生だ、と思うようになっていったわけです。で、今、なかなか寂しいことになっているな、と思うんですよね。友人や知人もおりませんし、仕事仲間もいませんし、ご近所づきあいもありませんし、親類縁者との付き合いもありません。孤立してしまいました。妻だけが社会と繋がる扉ですが、その唯一の扉にないがしろにされ、軽んじられていると思うのでは、実際には八方ふさがりの状態ですね。そんな状態になったわたしは、今、そして今後、どう生きていけばいいんでしょうね。自分から心を開いて…というのは、常套句であり多分正解だと思うのですが、そんなことが出来るのなら苦労もしませんし、こんな現状を招いてもいませんよね。冷静に考えれば考えるほど、虚しく感じてしまうんですよ。だからもう、何も考えない、というのが今出来る自分を救う道だと思うんです。世界に何かを求めず、ただ生きるだけ、と考えるしかないんですよね。世界を求めても、誰も応えてくれないんです。一人です。一人なんだなあ、ということを認めるしかないんですね、きっと。人は一人では生きられないといったことではないんですよ。それはそうなんですよ。当たり前ですけれど。精神的な意味で、一人なんですよね。誰にも認めてもらえず、求められず、愛されず。一人であることを、まずはしみじみと噛みしめるところからでしょうね。そういう人間なのだ、と。人生に目的があるとするのなら、それは、ただ生きるだけ、ということになりますかね。愛だとか友だとか信頼だとか友愛だとか、そういうものを求めるのではない。生きているから、生きるだけ。それだけなのだと。愛や信頼を得られなかった人間には、そんなそっけなくシンプルな答えに縋るしかないのではないかと。求めすぎていたのかもしれませんが。誰かに何にも求められないからこそ、誰かを、何かを求めるんですよね。でも誰も何も応えてくれなかった。ならばこれ以上、求めることはやめましょうと。求めることが辛くてしょうがないのなら、一人であることを認め受け入れて、一人で生きていくと決めた方が、負担が軽いのではないかと。他人や世界に干渉しないどころか、自分の人生にも干渉しなくていいのかもしれませんね。自分の人生も傍観するのだと。自分の人生の主役になれだの、人生を取り戻せだの、自分主体の生き方を主張する意見はあちこちにありますけれど、それではわたしの心は救われませんでした。他人の人生を眺めるように自分の人生を客観視する、と。他人事のように。自分の感情を、自分の人生に係らせない。感情を人生の外側に置いてしまう感じでしょうか。人生をまっとうに過ごしてきた人には、まるで人でないことを選ぶように見えるでしょうが、これが今のわたしには、一番マシな気持ちでいられる方法なのではないか、と思うのですね。そうですね、気楽になる、という言葉すらも重いです。マシな気持ち、気分になれれば充分です。なれればいいけれど、なれなくてもいいんです。それが求めないということなのかも、と思うからですね。どうせ一人です。一人で考え、一人で行動し、一人で生きていくのです。他人が関わらなければ、物理的な欲はともかく、精神的な欲は必要ではありませんよね。だから一人なんですよね。だから一人でいいんですよ。どうせ一人。これが今、自分を救う、一番シンプルな答えかもしれません。大体、将来何をしたいとかこんな仕事がしたいとか、夢とか願いとか、そういうものを持たない、持てない子どもであり人間だったんですよね。突き詰めれば、それは今も変わりませんね。だから、何もない人間なんです、わたしは。だから、目的を持つということすらがストレスなんですよね。そうですね、今やっとそれに思い至りましたね。なんとなくお金があって、なんとなく暮らせればそれでいいんですよね。そうか…。判ってきましたね。結局、自分の生き方ではないんですよ。なんとなくお金があって何となく暮らせればいい、という考え方は生産的ではないし、堕落したようであり、人として尊敬されたりする人生ではないですよね。そしてそんな人生を社会は認めないでしょう。人としての豊かで満たされた人生の設計図として、そんな生き方はまず称揚はされませんよね。愛し、愛され、豊かになる、という人生の在り方は、誰かの作り出した幻想でしかないのではないですか。どうして愛されないのかな、と悩むこと自体が、人の作りだした幻想でしかないとしたら。わたしの望む生き方は、その枠外にありますよね。立派な人になりたいとも豊かになりたいとも望んでいませんから。そういう生き方が正しいとして、それ以外の選択を社会や思想は封殺してきたんでしょうね。発展のためにはそれでよかったのでしょうけれど。今はもう飽和状態ですよね。わたしは、わたしの望む生き方を、ずっと否定していたんですね。そんな生き方は恥ずかしい、と。そして人生には、何か目的がなければいけないと思い込まされてきたんです。でも、そんなことはないんじゃないかと。TEDなど見ていると、よりよい人生のためにするべきこと、なんてことがよく話されていますけれど、それももはや妄言にしか思えません。強制しないで欲しいですね。がっちりと構築された成功者や科学者の意見で。そんな考えこそが、人の理想を断ち切っていることに彼らは気付いていませんよね。こうでなければならないことなんてないし、もっと自由に色んなことを考えて行動していいんですよね。宗教家が何を言おうと、政治家が何と言おうと、成功者やモテる人間が何と言おうと、それは力ある者の組み立てた、彼らに都合の良い生き方のプランであって、わたしのためのものではないんです。だから権力者には反発しなければならないんだ。そうだったのか。わたしは自分の理想の生き方を恥じていたけれど、恥じる必要なんてなかったんだ。無目的なことを恥じることなんてなかったんだ。わたしはわたしの望む人生を生きればいいんだ。と、冷静になれば当たり前のことなんですが、今ここに光が差したような気がしますよ。