眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

『エンダーのゲーム』をみる

脚本・監督はギャヴィン・フッド。2013年のアメリカ映画。

類まれな能力を秘めた少年が世界の命運をかけた戦いに赴くことになる…。という物語は、SFファンにとってはどうかは知らないが、日本人としては『ガンダム』であり『エヴァンゲリオン』であり、その他の多くのSFアニメの世界としておなじみのものである。しかもアニメーションは1年とか半年とか、時間をかけて少年の心を描いて行くので、本家であるこちらがどうしたってダイジェストにみえてしまうのは仕方がない。アムロやシンジを知る側にとっては、エンダーのドラマがひとつミッションをクリアすれば成長出来るような、簡単なものにみえてしまう。無論、彼は彼で、さまざまな葛藤を抱えているのだが、たとえば、ある人物とのトラブルの結果、地球へ帰還し、姉(演:アビゲイル・ブレスリン。可愛いまま大きくなっている)の言葉で宇宙へ戻るのを決意する場面の、あのあっさり具合。ドラマ的にはかなり重要だと思われるが、どうにもこうにもそんな処理をされがちである

が、終盤に至ってダイジェスト風なカラ回りはガラリと変化する。「いかにも何かを隠している様子だったハリソン・フォードたちの企みが判り、それを知ったエンダーの心情。衝撃の大きさは心を壊すのに充分すぎる。そして彼がみた夢の意味、理解した彼の決断。」表向きのクライマックスの先にある、エンダー自身にとってのクライマックスに至り、一気にドラマが熱くうねるようなものになっていく。前半がダイジェスト風になるのを犠牲にして、後半を生かすように構成された脚色だったのだろう。そうでもしないと長大な小説の映画化は出来ないのかもしれない。難しいものだ。

父親はエンダーにとって力にならず、兄は彼を目の敵にしている。宇宙では、グラッフ大佐(ハリソン)がいわば父の代わりだが攻撃的で、アンダースン少佐(ヴィオラ・デイヴィス)がエンダーの心をフォローしようとする。エンダーを護るものは、母と、姉と、仲間たちである。いわば女性的なもの。地球外生命体はエンダーと対話しようとするが、そこでは父親ではないもの、であることが重要になっている。父親とのコミュニケーションの不能、また攻撃的であることによるそれ。父と暴力にはこの物語は、解決出来なかったのだ。少年の物語は、父親たちと攻撃性を否定することによって、逆に理想の父親の像をラストで結ぶ。そこにいるのはエンダー自身という、ある種アクロバティックとも言える決着に感動を覚えた。