眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

オール・ユー・ニード・イズ・キル

EDGE OF TOMORROW

監督はダグ・ライマン。2014年のアメリカ映画。

あべのアポロシネマで。

激戦の最前線へと二等兵へ降格したうえで送られてしまったトム・クルーズ少佐。元々広報なので実戦では何も出来ない彼は、戦場であっさりと命を落とす。だがその直前、敵の血を浴びたことで、同じ一日(目覚めて死ぬまで)を繰り返す時間のループの中に落ちてしまう。生き延びるためには、何度も死んで、学ぶしかない。

無限のループから抜け出す方法をさぐることが、物語の骨ではない。あくまでも、自分が生き延びることが最優先される。そのためにトム・クルーズは繰り返される戦闘を、覚えていくことで生き延びようとする。今回はここまで、次はその先まで、その次はそのまた先まで、という具合に少しづつ前進していくしかない。ループする世界は言わば閉じられた世界なので、映画としては単調な見せ方になりかねない。が、視点を変え、それによって話のルートを変えることで、ドラマの側面に回り込むことになる。この辺りの変化の付け方は面白く、死ぬことをギャグとして扱うなどの余技も加え(絶対にスピルバーグから受けたものは大きいと思う)、飽きさせない映画の見せ方が如何にもハリウッド娯楽映画らしい。一方で、派手な戦闘を抜けた先、エミリー・ブラントとの二人の道行きの静かな場面は、膨大な時間の繰り返しを虚しく感じさせるものとして描かれている。微妙に変化していく世界の中で、一人の男が抱えていくもの。彼の中にうまれるひとつの感情。どんなに生きるための術を蓄えた所で、彼の思いは途中で潰えてしまう。このままでは、永遠に届かない。やがてその思いは、自分が生き延びることだけではなく、愛する人を、人類の未来を救うという気概へと変化していく。「オブリビオン」でも、派手な装飾が映画を彩る大方の魅力ではないのかという勝手なイメージを凌駕して(勿論、SF映画としてのビジュアルの見事さは言うまでも無い)、その奥のテーマ性、人の心に寄り添うドラマの構築にこそ心が動かされたように、今回もそこに力点が置かれている。

それにしても主人公の設定が素晴らしい。ループは記憶が繰り返されるだけで、肉体的に強靭になるわけじゃない(筋肉がついて、それによって動きが素早くなって、というような意味)。主人公が、あの戦場で戦い抜くためには、生きるために手段を選ばず、記憶力に長け、人心を掌握する、という人間でなければならない。広報担当で、(おそらく)口先と頭の回転でのし上がった男、というのは軟弱で卑怯な人物であると強調するためだけではない。この初期設定は、生き抜くために必要なものなのだ。そしてその彼がこの戦いの中で得た一番重要なものは、戦闘スキルだけではない、というところが、ドラマティックでとてもいい。愛した人を救うという、一個の人間としての素朴で単純で、しかし根源的な思いを長い時間の中でとらえたのだ。膨大で長大な時間、それはどれくらいのものだろう。映画を見る限りでは、普通の流れにして、数週間から、数ヵ月くらいのようにも見える。だがそれはそうなのか?映画では描かれていない選択を、数限りなく繰り返しているかもしれない。それが積み重なった時間とは?一年、二年?いや、それ以上の時間がかかっているのかもしれない。長大な時間をかけて、ゆっくりと重ねられた主人公の思い。諦念の中に見つけたであろう、その思いは単純な分、強固でゆるぎないものだったのではないか。それを踏まえたうえで、捨て身の戦いに挑む姿、そこに彼の超人ぶりの本当の凄さがある。肉体的な強さで戦うのではない。知恵と勇気で戦うのだ。

誰も知らない戦いがあったこと。それを知るのは彼一人だけということ。世界から切り離されてしまった男は、ループを抜け出して、また世界とひとつになれるだろうか。だからこそ、ラストシーンの、変わらぬエミリー・ブラントと、トム・クルーズの笑顔には、幸福と安堵、そして微妙な苦味とがあって、そのズレが切なく、美しい。こういうことを、ロマンティックという。

トムのプロデューサーとしての目配せはかなり細心であり、作り手のことを考慮しつつ、抑えるところはちゃんと抑えている感じが、いい。今回は脚本に、クリストファー・マッカリーバターワース兄弟が参加していることも面白い。共にオフビートな作風の印象が強い人たち。そういう人選をするセンスが並外れている。スター映画でありながら、よくあるブロックバスター映画ではない奇妙な味わいを備えているところが、最近のトム・クルーズ映画の面白さであり魅力だが、彼の特異なセンスがそれを導いているのだろう。