眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

渇き。

監督は中島哲也

あべのアポロシネマで。

高校生の一人娘が失踪したと、元妻からの報せを受け、役所広司演じる元刑事は、娘を探すために街を駆けまわる。やがて浮かび上がる、知らなかった娘の姿、その背後の想像し得なかった世界…。

コミック的表現が普通のドラマの中に入り込む、騒々しいほどの過剰な見せ方、語り方。普通に撮れば、普通のドラマになるところを(充分にそれで通せるほどの力量がある)、よい映画、よき評価、といった優等生的な映画にしたくないという思惑でも働くのか、いつもレールをはみ出すような作品作りが、中島哲也映画の、今のところのあり方であろう。今回もそれに漏れることのない、いかにも、らしい作品だったのだが、こと犯罪映画というジャンルにおいては、その手法はもはやごく普通のものとなっているので、中島哲也独特の風味は薄れている。時系列が前後するのも、血痕の形の絵が場面転換時のブリッジとして使われているのも、既成曲の使い方も、表面的なところをおさえていくと、ありきたりの犯罪映画とそう変わらない。ただ、ちゃんとした大物俳優を使って、予算もかけたうえで、血みどろの描写を盛り沢山に、救いようのない人たち(全く共感出来ない人たち)を、イラつくような見せ方で撮る、ということに、意味があるのだろうと。汚くて、醜い、そんな映画を、きれいなシネコンでみせる。観客を嫌な気持ちにさせたい、という意識。予定調和と感動が当たり前になっているメジャー邦画と、それを期待し、そういうものだ、と思って見に来る観客に対する、いらだちがあるのではなかろうか。行儀のいい映画ばかりみやがって。そんな映画ばっかりが映画じゃないんだよ!それだけが映画と思ってんのか!てめえら、映画舐めてんだろ!おれがみせてやる。地獄を覗いてみろ!…という、嫌がらせみたいな映画ではないのかな、と思いましたよ。観客の多くはげんなりすると思うのだが、そうなれ、と思って作っているのだと思う。

役所広司のやさぐれ加減が、見せ場。粗野で横暴、暴力も簡単にふるう。女であろうと子供であろうと関係がない。己の目的のためには周囲の事情はお構いなし。配慮することなど一切しない。真夏の日差しの下、髭面、長髪で汗を浮かべながら、罵詈雑言を履き散らし、血臭にまみれた世界をひとり漂う。娘が無事か、また彼女が何をしていたのか、ということに関して、何一つとして明るい話は見えてこず、どんどん暗がりへと突き進んでいく。やがてそれは、彼自身の抱える後ろ暗さにまで届き、どうにも行き場のないどん詰まりへと進んでいく。いずれにせよ、最初から、ろくでもない結末にしかならないことに、役所は気付いているはずだ。それでもあきらめずに、最後の最後まで見届けようとする理由は何か。わが子、という所に、果たしてそうするだけの意味があるだろうか。彼女が己の分身であることは、血を分けた肉親というだけではなく、血の臭いを発散させる邪悪な者としての意識…それが同胞意識なのか、近親憎悪で殺しにかかる意識なのか。自分への嫌悪が回りまわって、娘への憎悪と重なっているのかもしれない。しかもそれが愛情のねじれた表現にもなっているようなので、面倒臭い。

白昼の悪夢のような展開は、ドラッグがらみで白を意識させるようになり、暑い中を役所広司は白のジャケットを着続け、白々しいほどの学校生活の青春映画っぽい白さ(制服の白さも)をはらんだ上で、ラストの雪の中へ、白い闇の中へ落ちていく。あれは、もう抜け出せない世界だと思った。愛情を取り違えた者たちが落ちた、娘を探し続ける、そして決して見つからない、白い地獄なのだろう。そこへ行きつくことは最初から決まっていたのだ。