眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

ビヨンド(1980)

THE BEYOND
監督はルチオ・フルチ
DVDで。
夏のホラー映画まつり絶賛開催中!まつり内企画として、ルチオ・フルチ映画まつりを開催中です。第2弾は「ビヨンド」にしてみました。

この映画の感想は、意味不明であるとか、つじつまが合わないなどなど、大半が否定的。あふれ出る死のイメージと、趣味の悪い特殊メイクは評価されても、物語としては破綻しているというのが大方の意見のようだ。多くの感想を読んでも、結局どういう話であるのかは、誰も書いていない。確かに説明不足は間違いがないので、話を理解するのはややこしい。だが、穴だらけの物語を想像で補うと、そういう話なのか…?というものが見えてくる。説明する気がないなら、解釈は自由でよいということでも文句はないのだな?ということで以下のような話だと思って見たのである。当然、ネタばれしています。

1927年のルイジアナのあるホテルで、画家が、街の住人たちによって殺されて壁に埋められるという凄惨なオープニング。彼は、ここは呪われていて、それを解く方法を俺は知っているんだ、みたいなことを言う。彼はこのあと、話が現代に移ってから、塗り込められたときのミイラみたいな姿で出て来ますけれども、彼の目的は何なの?というのが、以前はよく判らなかったんですが、最初の台詞からすると、彼は地獄の門の門番というか、番人だった、ということなんでしょう。門が開かないように見張っていた。けれど、そのために怪しげなことをやらざるをえず、街の人々はそれを邪悪なものだと思って、彼を殺してしまった。画家は、殺されたことで結果として、言わば内側から門を閉じた、みたいなことなんじゃないでしょうか。ところが、ホテルを相続したカトリオーナ・マッコールは、改修して再びオープンしようとしている。ずっと放置されていて手を出せなかったけれど、それならばと、悪の側もここぞと出張って来る。それが手伝いに来ている、アーサーとマーサであったと。彼らは部屋のあちこちをまわり、門を開こうと画策。しかし、阻止しようとする画家の側は、水道工事の作業員のゾンビを使ってマーサを殺す。この作業員は映画の前半で無残な死に方をしますけど、画家が手先とするものは、死者でなければ無理なんじゃないかと。理不尽だけど、作業員はそのために殺されてしまったのでは。

マッコールに、ホテルから去れと警告してくる盲目の女性(サラ・ケラー)も、現実の人ではないですよね。役割が判りにくいけれど、彼女は、画家の命令で警告しに来た。でも彼女の警告ではマッコールは出て行かず、力不足だとして、画家は彼女を地獄へ連れ戻そうとする。彼女はそれを拒否するものの、画家の側に取り込まれた愛犬が喉笛に噛みつくのであった…。

作業員の妻も悲惨な死に方をしますが、突然両親を失った一人娘が、その後、サラ・ケラーと同じような目になりますが、彼女の役割は何だろう?見張り?生身の人間でありながら、画家の側に取り込まれてしまった少女…。

ホテルの改修を手伝う建築家は、何故かタランチュラに襲われて死にますが、これもまた、改修して門の存在に気付かれる前に、殺されたんでしょうな。ホテルの図面が消えていくのも、あれは画家が(謎の力で)証拠を隠滅しているということか。そんなものはないのだ、と。

終盤で、アーサーが地下室で、マッコールに襲いかかってきますが、あのとき彼は門を開いてしまったんじゃないでしょうか。医者のデヴィッド・ウォーベックとマッコールは病院に向かいますが、もう誰もいない。あっちにもこっちにもわらわらと死者が現れる。開いた門を閉じる方法はもうないのか?ということで、ラストは、画家による一方的な方法で、あれは門が閉じられた、ということだと思うんですよ。地獄に入ってしまった主役二人。前を向いても後ろを向いてももう出口はない。闇の世界が広がっているのみ。あっと思ったときには、彼らの目は、サラ・ケラーと同じ目になっている。あれは、あの目は、地獄の番人として、いけにえとなった人間の目だったのだ…と。あの目は、地上世界では見えないけれど、地獄では見えるんだろう。永遠に地獄をさまようことになる二人。その代償として、地獄の門は閉じられる…。

という話だと思って見たんですが…。そんな話じゃないよ、というのならそれはそれで別にかまいませんが。でも、想像を巡らせるのは愉しいですね。おかげで以前みたときよりも、何倍も面白い映画になりましたよ。