眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

喰女 クイメ(2014)


監督は三池崇史
四谷怪談上演のための稽古中。市川海老蔵伊右衛門柴崎コウがお岩。二人は実生活でも同棲している恋人同士だが、海老蔵は他に女がいて、コウは次第に精神が不安定になっていく…。そして役柄をトレースするように、二人の関係は恐るべき事態へと落下していく…。

↑という話しだと思っていたので、舞台の部分はそれほど重要とは思っていなくて、例えば「ブラック・スワン」あたりをイメージしていたのだけども、意外や、この舞台稽古の場面こそが重要なのだと言わんばかりの充実ぶり。舞台装置、セットそのものがちゃんと作られている。これが実に見事で、こっちだけでしっかりと映画化してもらってもよかったのではないかとも思う。

スタッフ、キャストに各席が用意されており(ああいう劇場なのだろう)、関わる全員がこの練習風景を、息をひそめてじっとみる。しかも海老蔵とコウが恋人同士であることをおそらく全員が知っている。全員が、虚構と現実をダブらせてみている。衆人環視とはこのことか。舞台という密閉空間と、それを取り巻くスタッフまでもが閉じられた空間にいる。次第に現実と虚構が混じりあう感覚が強くなると、客席側で稽古をみているだけのはずの根岸季衣は、衣装のまま、異様に怪しげな笑みを浮かべる。それは自分も合わせて稽古をしているだけなのかもしれない。芝居をしているとそれがスタッフの間にまで割り込んでくるところもある。それも、花道が延びている先で演技しているだけかもしれないが、虚構が現実を浸食しているように思えて不気味。異界との境が曖昧な感覚。

以下若干ネタばれ気味
もっといえば、楽屋、海老蔵とコウのマンション、海老蔵の愛人の部屋、あるいはバスルーム、といった具合に閉じられた空間、個室の中で物語は動いていく。すべてに睦事とその結果がついて回る。妊娠が絡むというのなら、これらは母親の胎内であるとも見える。海老蔵の世界が、その胎内ではないのか。胎内にある限り、その生存はある程度保証はされているのかもしれない。しかし、決定的な事態が起きるのは外である。海老蔵は車の中にいるが、脅威はその外からやってくる。内側にいる限りは守られていても、外側からくるそれには、彼はなす術がない。コウにとって、鏡に入ったひびは、最後に現実の世界の壁を喰い破るために必要だったのかもしれない。また、お岩が赤子を食べている場面、コウが無理矢理我が子を引きずり出そうとするところ、これらも海老蔵の胎内の物語であると思えば、赤子は海老蔵自身という見方も出来る。女に喰われる、あるいは無理矢理引きずり出される。どちらにしろ、その先にあるのは死のみ。コウに抱かれる赤子の人形だって、その世界でなら、涙を流しもするだろう。既に死が約束されているのだ。死を予感した男の抗い。あるいは女性に対する根源的な嫌悪と恐怖。舞台、劇場、胎内、妊娠する柴崎コウ、中にいるはずの赤ん坊…。海老蔵を中心にした入れ子構造。それが瓦解するとき…すべては一瞬の夢であった、とも思える。

マイコの存在も怪しかった。ただのマネージャーではない。彼女は一体何なのだろう。彼女はコウと一緒に、外側に出た人物でもある。一見、ラストは心霊的決着のように思えるが、マイコが協力していれば?という想像もしてみたい。

相変わらず、まとめきれていないけれど、それだけ色々思うことがあり、面白くみた、ということでございます。