眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

快盗ルビイ(1988)

脚本・監督は和田誠

1992年8月24日(月)午後4時〜よみうりテレビ、と手書きのラベルに書いてある。22年前のビデオテープ、標準録画なんですけどね、ちょっとぼんやりした画面になってました。でも、元々画面が汚いんですよ。ともあれ、久々に見られて嬉しい。変わらず、キュートな映画であった。

小泉今日子の、男の手玉の取り方術が素敵。それが通用しない相手もいるんだけど、とりあえず、真田広之は良いように弄ばれる。かわいい。計画を練るところが、意外と長回しだったりもして、実は演技の見どころ。二人の距離が近くって、これはさえない人生送って来た系男子には、あまりにも強い刺激。コケティッシュというところまで行くか行かぬかの微妙なラインを計算しているような小泉今日子…。憎い。ただ、今回見直してふと思ったのは、会社で伊佐山ひろ子に誘われる場面での真田広之の対応は、動揺することもなく、思ったよりもスマート。全く冴えないわけでもないのか…と。何も考えてないだけかもしれないけど。

アイドル映画の範疇にありながら、コンセプトも制作体制も、搾取することを第一とする(であろう)アイドル映画の安っぽさはない(まあそれはそれでまた魅力のひとつであろうとは思う)。88年ですからね。バブルの頃ですし。小泉今日子の衣装が次々に変わるのは、スタイリストという役柄のせいもありますけれども、華やかなファッションに身を包んでる姿を通して、あの時代特有の空気が、ちゃんと映ってます。あの時代特有の空気、というのは、ああいう格好がテレビや雑誌のなかに普通にあり、都会には実際にそういう人もいた(のであろう)、ということです。今みると、ちょっとやり過ぎな感じもあるけど、あれを皆が許容していた時代。お金があって盛り上がっていたから、みんな余裕があったんだと思いますよ。そういう自由さと、自由なるがゆえの過激さ、そういう時代であったな、と。勿論そこには、ノスタルジーが入って来るので、感覚が補正されている部分もあるだろうけれど…。今、泥棒映画を作っても、こんなふうにはならないだろうな。まず邦画の現状からすると、こういう映画は作られませんけどね。

この映画は、昔のアメリカ映画の、それこそパラマウント映画なんかの都会的でしゃれた線を狙って作られてますよね。笑いのセンスも、大笑いにはならない、くすくす、という感じなのも上品だし(加藤和夫の電話のわたし方が、だんだんぞんざいになるところに毎回笑ってしまう)。全体に、どこか人工的な風合があるのが好きなんですよ(セットの場面も多い)。ヒッチコックぽいな?というシーンもありますけど、それも人工的な感じがする理由のひとつですかね。あと人工的と言えば、突然ミュージカルになるところとか。

昨晩は満月だったこともあって、この映画をみるには最高の日でもありましたな。思わず夜空を見上げたわ、柄にもなく。そんな気持ちになる映画なんですよ。

しかしVHS、普通にみられたのがありがたい。画質は仕方ないにしても、みているうちにまあそんなもんだと思えてくる。みられるだけまし、ということを優先するタイプなものでね。ま、それはそれとして、ビクター音楽産業はリマスターしてブルーレイ出すように。