眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

神の左手悪魔の右手〜女王蜘蛛の舌

楳図かずお・著/小学館

医師の高品先生が知り合いのペンションへ行くのに、想と泉もくっついていく。ペンションは先生の友人の木玉さんが経営しているが、やけにやつれているのが気になる。しかもこのペンション村ではすでに10人が死んでいるというからただ事ではない。想は昆虫採集に行った山の奥で御屋敷を見つける。窓辺に佇む美人。彼女は、ペンション村の方をみながら「今夜こそは…」とつぶやく。謎めいた言葉だが、想は、この女が今夜、木玉さんを殺しに来ると確信。その夜、おびえる想の前に、窓ガラスの割れたところから大量の蜘蛛が侵入してくる…。

話しはこのあと、消えた蜘蛛を探す屋敷の下男による想への襲撃、さらに屋敷の主(女王蜘蛛)が高品先生を虜にしようとする展開となる。ゴア描写は相変わらず凄惨だけど、特に抉れて血まみれな舌の描写がどうにも生理的嫌悪感をかきたてる。粘膜系への加虐描写は、体がもぞもぞしてしまいます。

高品先生の婚約者で、かおりさんという女性が登場する。彼女は蜘蛛にとりつかれてしまうのだが、想は、容赦なく彼女を叩きのめす。ゴミ捨て場でみつけたトラバサミを車の運転席の足元にかくし、彼女が足を挟まれたところで、殺虫剤(バルサン?)を車内に投げ込む。たすけて!という彼女に、嘘だっ、かおりさんはどこだ!と、車体を鉄パイプでぶんなぐる。いや、その正体は確かに蜘蛛なんですけれどもね…。何も知らぬ他人がみれば狂気の沙汰ですよ。

楳図かずおの考え方として、子供は神、というのがある(と思う)。純粋で、真実のために考え行動する。それによって未来は拓かれる。確かにそうかもしれない。その一方でそれを突き詰めると、純粋さは邪気のなさであり、それゆえに場合によっては暴力に直結し、客観的な描写としては、子供による殺戮、ということにも繋がってしまう。シリアスに描くと「漂流教室」になるのだが、「神の左手悪魔の右手」ではシリアスでありながらも、そこにブラックジョークとしてみせようという企みがある。狂気とジョークのバランスが凄まじい。純粋さ→狂気→ジョーク…という流れかなあ。いずれにしろ、常識的な人間には描けない。

それにしても、屋敷の主である女王蜘蛛。高品先生を町まで追いかけて来て、婚約者になりすますわけだが、もしもばれなければそのまま、かおりさんの姿で彼と一緒にいたのだろうか?物語的には、一見、彼女は恐怖の対象でしかないようにみえるが、その実、高品先生への愛(蜘蛛の愛がどのようなものか判らないとはいえ…)は本当なのがちょっと衝撃的。単純に彼を取り殺すのが目的じゃないんですね。彼女の最後で注目したいのはその表情で、怪物が倒される顔がじゃない。ここには痛みと悲しみしかない。悲運の女の最後、という描き方ですよ。↓切なくなりますな。

まああれだけ周囲に恐怖をまき散らすので、悪は悪だが、その向こうにある彼女の気持ちには、想は子供なので思い至らない。顧みる一片の余地もない。悪意に対抗しうるのは強い純粋さ、それは常軌を逸するかのごとき狂気にも思えるが、それを持つのは子供、という考え方もまた狂気の塊のように思える。しかしそこに、子供がヒーローになる必然というものがある。凄い。

根を詰めねば仕事が終わらない、アシスタントさんたちの苦闘が目に浮かぶような、蜘蛛の描写が圧巻。すごく丁寧に、一匹一匹描いてある。もはや執念のような執拗な描き込み。そこが肝だから力が入るのは当然だけど。

錆びたハサミ」「消えた消しゴム」「黒い絵本」「影亡者」の感想も書いています。