眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

ジャッカルの日(1973)

監督はフレッド・ジンネマン
巨匠、と呼ばれる映画監督は、やっぱりウィリアム・ワイラーとか、デヴィッド・リーンとか、そしてフレッド・ジンネマンとか。今の映画監督に巨匠と呼ぶに値する人がいないわけではないけれど。言葉の重みからして、おいそれと軽々しく使えないように思う。

ジャッカルのスタイル。スーツの着こなしが美しい。ベージュのスーツが印象に鮮やかだが、もう一着薄いグレーのような少し紫(ピンク?)が入っているような色合いのスーツもスマートでかっこいい。エドワード・フォックスが裸になる場面でよくわかるのは、彼の均整の取れた体つきであり、つまりこの着こなしのよさは、その肉体によるもの、ということが何よりも大きい。一方、ジャケットを脱いだときの崩れたラフな感じも、エロティックだと思う。いずれにせよ、自分の見せ方がよく判っている着こなしということで、そこには単にお洒落なだけでなく、自分に自信があり、同時に自己陶酔、また並外れた自己抑制も感じられる。鍛えなければあの肉体は手に入らないし、仕事だからとはいえそれを維持し続けるには、ある種のナルシズムがなければ無理だろうと思うから。というのは穿ち過ぎかもしれないが。それから、大半でノーネクタイで、スカーフを襟元に巻いていること。ぱっと数えた感じでは劇中5枚か6枚か、それくらい替えている。多分、もっと持っているんだろうな。これがまたお洒落だし、粋な遊び人風で、かっこいい。なかなか真似出来ないでしょう、これ。

プロの殺し屋の非情ぶりも見せ場だと思った。デルフィーヌ・セイリグを殺す場面では、物音一切立てずの冷ややかさが恐ろしい。けれど美しくさえある。トルコ風呂で知り合った男を殺す(であろう)場面も、多分、やさしくそっとやっているんだと思う。眠るように。偽造屋のような悪人相手には怖い目痛い目に合わせてもいいのだろうが、別に何も落ち度のない相手に対しては、静かに逝かせてやる。せめてものやさしさなのかもしれない。だが、だとすれば、それはセンチメンタルな思い込みで、それに酔っているのなら、相当なナルシストだと思う。狂気の人である。いわばサイコパス的な。しかしあれだけ綿密な計画を立て、遂行するには、サイコパス的な偏執性が必要なのかもしれない。イタリアかパリかで迷い、パリを選ぶ場面は、プロフェッショナルとしての矜持のように見えるけれど、偏執性ゆえのものだとしたら、印象が少し変わるな。

大人ですなあ、と思うのは、フォックスとセイリグのやりとり。ちっとも盛り上がっているようには思えないのだが…。フォックスが、もう一杯如何ですかと誘うのを、もう結構と断り、明日は早いからと言って、そそくさとラウンジを出ていく。これは軽くあしらわれたように見えるのに、あとで彼女の部屋へ行くと、ドアには「入室お断り」の札がかかっているのにノブをひねると鍵がかかっていない、という…。また、ジャッカルの正体にやっと追い付いた警察が、あと一歩のところで取り逃がしてしまい、ホテルの従業員に話しを聞くところでも、給仕が、「二人はお互い夢中になっていました」と証言するんですよ。あの様子で、盛り上がっていると判断するんだ…。大人の世界って深いな…としみじみ。

女優はほとんど活躍の場がない映画で、先ほどのセイリグがマダムらしい貫録と色気で素敵。屋敷に帰ったあとの場面で、ミシェル・ロンズデールが訪ねて来てドアを開けた瞬間の、振り返って止めたようなポーズが、貫録と不安の両方を感じさせてよかった。この場面で、彼女が身につけているネックレスとブレスレットが、目の色と同じグレー。これが映えるんだ。やっぱりそういうことって意識するんだな。もうひとり、オルガ・ジョルジュ=ピコが、OASの人間で、閣僚の一人を引っかける役で出ている。恋人の写真を焼き捨てられ、ひっそりと一筋の涙を流す場面が切ない。ただ、最初に出てくるこの場面での、薄いブルーのノースリーブのワンピース姿(茶のベルト着用)は大変可愛い。またひっかけるための口実を作る場面での、ノースリーブ(小さな赤と紺の水玉)も可愛かったけれど、やはり引っかけた大臣を待っているときの、スケスケのネグリジェみたいなののインパクトが強烈すぎて。この悩殺っぷりに参った(テレビ画面から直撮)。

サスペンス映画としては、もはや言わずもがな。久々に見直しても、重量級の映画。