眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 死霊創世紀(1990)

監督/トム・サヴィーニ

時代設定は、オリジナルと同じ1968年と考えていいのだろうか。久しぶりに見返して見ると、テレビの古さなどからして現在ではなかったのだな、と今更気付いたのだが、いやしかし今風にも見えるところもあり、少々混乱する。

何よりも、トニー・トッドの芝居ぶり。オーディションでもずっと泣いていたらしいが、神よ!と天を仰いで絶叫するところを始め、舞台となる一軒家までいかにして逃げて来たか、街で何があったかと語るときも泣いている。他にも、よくよくみると目がうるんでいるようなところもある。下手をすると記号的な芝居になりかねないのを、強面のトッドが頬を濡らして力演することで、彼のキャラクターは、表面的なもの以上の深みをもっているように見えてくる。実は信心深いのではないか。実は繊細なのではないか。実は虚勢を張っているのではないか。いずれにせよ、この映画の登場人物の中で、一番絶望の度合いが深く、世界の終わりを切実に感じているのではないか。

全てが虚しく展開していく。トッドと、地下に隠れていたトム・トウルズとの確執。自分の主張を曲げることのない平行線の争い。冷静さを欠いた行動の顛末は若いカップルたち。失われるテレビ。ガススタンドの鍵。トランシーバー。遅すぎる情報。トラックの荷台の死体。何一つとして、救われるものはない。それはこの世界の未来そのものでもある。こんな人間たちに、美しい未来など、あると思うのか?という問いかけ。

もう一人の主役であるパトリシア・トールマンは、最初は臆病で恐怖に囚われた人物として描かれているが、中盤から、少し性急すぎるような能動的な行動を取るようになる。生き延びるための術として、短時間にそれを体得していくようでもあるが、狂気の中では自らが狂わなければ生きられない、という覚悟かもしれない。しかしその狂気は、芯からのそれではない。冷静な思考の結果である。わざと狂うのだ。それはトッドと同じ、深い絶望ゆえだ。そういう点では、彼女とトッドの気持ちは同じところにある。また、彼女だけが、死者の動きはのろいので、間をすり抜けられると言うのも意味がある。結局、無理だと思われたことをして、生き延びるのは彼女だけなのだ。死者を家に入れないことで恐怖に対抗しようとした人間と、死と隣り合わせの現実を受け入れた人間との差。

オリジナルが素晴らしいのは勿論だが、このリメイクもかなりよい映画。ゾンビものというのは、今となってはどうしても滑稽になりがちなのだが、悪夢として描ききっているのは特筆に値すると思う。

VHS版ジャケット

チラシ裏面