眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「進撃の巨人 エンドオブザワールド」 感想

ネタばれしています。

エレンが幼い頃、父(草磲剛)から何かの実験のために注射されそうになるという場面が、冒頭に置かれている。母(緒川たまき)がそれを見つけて叱責するが、父は「上の子にも試したが異常はない」といったことを言う。エレンには兄弟がいたのだ。その場にいたソウダ(ピエール瀧)は、巨人化したエレンを脅威と考えるクバル(國村隼)によって射殺されてしまうので、事の全てを知る者は劇中にはもう存在しなくなる。あとはエレンの兄、という人物が知っているのかもしれないが、それもどうだか判らない。どうやらシキシマ(長谷川博己)がその兄らしいのだが、はっきりとは言及されないままであった。曖昧なままにしておく意味は、あるのだろうか。含みを持たせる作劇なのかもしれないが、そうする意味が良く判らない。

よって、映画の中盤にある、エレンと鎧の巨人の闘いは、まさしく本当に「サンダ対ガイラ」と化す。若い世代は、全く何も感じることはないだろう。せいぜいが「ウルトラマン」的なものを感じるくらいだろうが、東宝特撮映画世代としては、これはかなり燃える瞬間である。今風な格闘技の身のこなしで戦う兄と弟の図は、アップデートされたサンダとガイラなのだった。作り手がどう思っているのかは知らないが、やはりそこにダブらせてみてしまうのは、特撮世代の性(さが)であろう。劇中で一番面白いのはこの部分で、いわばクライマックスの前半部分。後半部分は、壁を破壊するために不発弾を運んでいると、そこに超大型巨人が出現して…というくだりになる。

しかし、理屈はどうでもいいので、もう一度エレンを巨人にして、直に大型巨人と闘わせなければ話としては盛り上がらないと思うのだが、どうか。よれよれになったエレンに変わって、シキシマが巨人となって大型巨人に突撃するのでは、ドラマとしてはどうにもしまらない。もうその時点でエレンは使いものにならず、見せ場の上では役目が終わっているのは、どうにもならなかったのか。不発弾は、なんとか最後に爆発するが、映画自体は不発のまま終了してしまった、という印象である。

あれほど沢山の人間がいたのに、後編ではあっという間に減っていく。調査兵団で残るのは、エレン、ミカサ、アルミン、サシャ、サンジ、ジャン、ハンジ。最終的には、サンジとジャンもいなくなって、5人だけになる。人数が減るのに伴い、画面もスカスカになってくるのが辛い。あまりにも物語が小さく貧弱になっていくのを、ドラマが支えきれていない。書き割りのようにしか人物を描いていないので、これは仕方がない。脚本、演出のせいではあろうが、これだけの人間を、これくらいの時間で描くこと自体に無理があるとも言える。しかしそれなら、ほぼオリジナルな脚本は、もっと大きな花火を打ち上げるような展開を考えなければならなかったのではないか。どうにも物足りない。ハリウッド映画なら、本当の敵が誰かを知った人々が立ちあがるところがあるだろう。エレンたちの物語と並行して、名もなき(その中心には、エレンの友人とかがいる)人々が政府軍に反旗を翻すはず。クライマックスは双方が入り乱れての戦闘となり、彼らの眼前で巨人の戦いが描かれていただろう。となると、お金のありなしが、内容にも影響する、ということか。残念な日本映画界、というしかない。

他に気になったことをいくつか。車に乗って移動する場面など、グリーンバックを使った合成カットが非常にちゃちなのは、どうにかならなかったのか。予算の限界なのだろうか。如何にも合成していますというような、ほとんどスクリーンプロセスのような画面には、目を覆いたくなる侘びしさがある。前編でも、超大型巨人が出現して、壁の前にいたエレンたちが吹っ飛ばされるあたりにも同様の安っぽさがあり、作り手も絶対あれでいいとは思っていないはずだと思うのだが、仕方がないのだろうか。

文字としては問題なくても、実際に口に出す台詞としては無理がある、と思う場面も気になった。特にどこが、というよりも、全体がそんな感じ。あまりにも定型すぎる台詞、とでもいうか。これがアニメならば、それほど違和感は無かっただろうが、実写では無理なのだろう。そこのところを、脚本家も監督も今一つ掴み損ねたのかもしれない。同様に、シキシマが色々なことをエレンに説明する場面の、白い部屋や白いシャツの不自然さ。シキシマがエレンをめったうちにする場面の、理由の良く判らない暴力描写など、漫画・アニメと実写のリアリティの違いということなのか、作りもの臭さが強い。前編で、シキシマが登場する場面の逆光ぽいカットに顕著なように、樋口真嗣は、そういった決めのカットを撮るくせがあるが、アメコミヒーロー映画ではそれは有効でも、「進撃の巨人」ではどうなのか?クバルが変身するところの、大袈裟な風の表現とか國村隼の芝居とか、これもアニメ的だった。監督の演出の引き出しには、実写映画としてのリアルさについてはほとんどなくて、特撮とアニメの引き出ししかないのではないか?という疑念が生じ、ちょっと戦慄している。

巨人の表現は賛否があったが、あれは良かった。予算の少なさをカバーするためのものであったとしても、ハリウッド映画とは違う見せ方が面白く、異様なものをみている、という興奮があった。巨人同士の闘いも、いい感じに凄惨で、痛快。特にエレンとシキシマの激突には血沸き肉躍った。
壁のセットや、倒壊する建物、走る自動車などのミニチュア特撮も、ミニチュアに見えてしまうところも含めて、見応えがあったと言いたい。
またオープンセットも見事だった。あれだけの規模で、あれだけの人間と使っての撮影は、なかなかにスケールが大きく、わざわざ映画館で見る価値があるというものである。ただ、町並みはヨーロッパのどこかのようで、日本的な風情は全く感じられなかったのが残念。が、100年後だとあんなものなのだろうかね。
後半になって表面化する事の真相に至って、反権力的な色合いが強まるのは、個人的には大変好みだった。巨人の襲来と、震災及び原発事故もダブらせてあるのだろうが、それが娯楽映画としてうまく繋がっていない印象。惜しい。

俳優では、長谷川博己の一人勝ち。役の設定と台詞ゆえに芝居が異様に癖のある感じになっているが、一人だけ、映画の世界観を背負って立っている感じがあった。若者たちでは、アルミンの本郷奏多が、物語を回す役回りをそつなく演じている。彼のことを意識するようになるサシャを演じる桜庭みなみは、個人的に好きなこともあるが、弓を引く立ち姿がりりしくてかっこ良かった。意外な収穫。三菱地所を巡っていた頃より断然いい。ジャンを演じた三浦貴大も悪くなかったが、屈折した心の内が描かれていないので、文句を言うばかりのうるさいだけの人間になってしまい、芝居が浮いてしまっているのが惜しかった。全体的に言えるのは、若い俳優たちは、もっと腹から声を出せ、ということ。皆、そこが弱い。小手先の芝居よりも、腹から声を出す、まずはそこに注力していただきたい。

と、思ったことを書いてみた。あまり褒めているようには読めないが、退屈な映画だとは思っていない。むしろ、面白くみた、と言っていい。同時に残念に思うところも色々とあって、その不満を書くと、こんな感じになるということである。しかし、2015年の映画界にあっては、もっとも話題になった作品なのではないかな。こういうお祭りには参加していた方がよろしい。映画館のスクリーンで見ておかないと損するね。

監督 樋口真嗣/2015/