眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「ジュリー&ジュリア」 感想

<あらすじ>1949年。外交官の夫の赴任についてパリにやってきた、ジュリア・チャイルド。楽しく暮しながらも何か満たされず、料理学校に入ってフランス料理を学び始め、やがて知り合った人たちと、アメリカ人のための料理本を出そうとする。そして2002年のニューヨーク。同じく満たされない日々を送るジュリー・パウエルは、ジュリアの著書を参考に365日で524の料理を作りことを決意し、ブログを始める。時代を越えて、二人の女性の人生が描かれていく。

料理は分量をきちんと量ることが単純にして重要だが、映画自体もどちらかに偏ることない、配分が確かなダブル主人公映画。安心してみていられる。

実際のジュリアは、大柄な女性だった。188センチあったというから、現在においても、女性としては結構な高身長である。映画には妹も出てくるのだが、登場した時点では結婚していない。ジュリアも夫ポール(スタンリー・トゥッチ)と結婚したのは40歳のとき(まだ処女だった、ということが現在のパートの会話の中に出てくる)。1949年以前、40歳まで未婚というのは、今のアラフォーが未婚というのよりも、社会的な立場の弱さはもっと大きなものだっただろう。映画では、ナポリだかで知り合い、「彼女の足が美しかった」と、夫がバレンタインのパーティーの席で言う。外交官で、リベラルな思想の夫。二人には子どもがいなかった。そのことに関して、映画の中でははっきりとは描いていない。夫婦ふたりの暮らしの中に、本来子どもがいてよいようなとき、ジュリアが寂しそうにするだけ。妹に子どもが出来たという知らせが届いたときも、「嬉しいのよ」と言いながらも、涙を流しながら夫の胸に顔をうずめる場面など、言葉にはしないけれども、二人の中にある普段押し隠している感情があふれだしていて、苦い。自身も名家の出身で優秀な人であり、またエリートの嫁という立場ではあっても、すべてが順風満帆ではなかったであろうジュリアの人生。夫のポールは、そんな彼女に優しく接し、愛し、見守り続ける。彼自身が、赤狩り共産主義への傾倒を疑われて傷ついても、それでも彼女に負担をかけまいとする。そしてそんな夫を、ジュリアもまた愛すのである。二人の姿は、いつまでも仲睦まじく、ここまで美しいなんてことは、実際にあるだろうかと思うのだが、それはつまり、理想の夫婦像として描かれているということである。

ジュリーは、9.11後の、グラウンド・ゼロを目の前にして、その保証についてや苦情についてや怒りについて、日々寄せられる電話に対応する仕事についている。そのストレスは、想像にするだにかなり辛いものだろう。夢は作家だったが、それは果たせなかったという現実もある。煮え切らない毎日の中で、彼女は料理を始めるのだが、その中でさらりと言われるのだが、ジュリーが「自分はADD(注意欠陥障害)である」ということ。これらの重荷が、生活に存在している。

ジュリーがADDであることを、夫のエリック(クリス・メッシーナ)は知らなかったようで、そうだったのか、と体を起こす様子が描かれている(と思ったが記憶あやふや)。この映画をみるときに、そこは割と忘れられていることが多いように思うのだが、それ以降のエリックの献身的とも思えるやさしさは、彼女のその性質を見越した上でのものであった、とも思うのである。彼女が365日で524のレシピを作るというのは、かなり無謀なチャレンジであったとも思われ(逆に、だから達成出来たということもあるかもしれない)、それを支える忍耐力もまた、本人と変わらず大変なものだったはず。彼女の様子に、常に注意しているエリックの姿をみていると、そこに愛情以外の何を見出せよう。ジュリアを見守るポールと同じく献身的な姿であり、映画は、二組の夫婦の姿を、重ねるように描いていく。ジュリアの時代のプレッシャーは、2002年当時の現在に置き換えても、大して変化がない。だが、その一方で、美しい夫婦のありかたも変わらないのだと。事実とフィクションを巧みに織り交ぜながら、支え合い信頼し合う夫婦という理想を語っていくのである。女性の自己実現が映画のテーマだが、それを目指すときに、横にいるパートナーが出来ることについての映画でもある。そのとき自分には何が出来るだろうか、と。女性映画として作られているが、「夫婦生活における男の意識の持ち方」という裏テーマが同時に発生しているのも意味深い。

印象に残るのは、ジュリアが、ジュリーの挑戦について、あまり好感を持っていないことを知らされるところ。このことにジュリーは大いに落ち込んでしまうのだが、エリックはこう言うのだ。「本物の彼女が心の恩師ではない。心の中の彼女が心の恩師だ」と。憧れを抱き尊敬したのは、実際の彼女ではない。本を通した彼女であり、彼女の人生だ、と。ジュリアへの敬愛を傷つけず、ジュリー自身も傷つかせないという、この配慮に満ちた言葉。こんなことが言える夫になりたい。また現実に、ジュリーとジュリアは会うことはなかったが、それを「ドリーム・ガールズ」のような、ファンタジーにもフィクションにもしなかったことも良かった(あの映画は、あれはあれでいい)。ともすれば、嫌な人とも受け取られかねない結末を、「こっち側の気持ちの問題だから」と言い切ってしまうことで、リスペクトの精神を残したラストシーンに仕上げる処理の仕方は、さすがだと思ったな。

元々エイミー・アダムスは好きなのだが、この作品での彼女のキュートさは異常なほど。思うに、髪型にせよ、ファッションにせよ、ちょっと微妙感があるところがいいのではないだろうか。ちょいダサめな感じというか、ダサ可愛い感じというか。ジュリア・チャイルドの、背の高さゆえのファッションの幅の少なさという縛りと、呼応させているのではないかとも思う。

字幕は古田由紀子さんだった。流れる歌が、場面の状況や気持ちを語る使い方がされているので、歌詞が訳されているのはとてもよかった。凄く大切な場面なのに、歌詞が訳されないケースは結構あると聞くので。また、開いたパソコンの画面に表示された文章にカメラが寄るところでも、重要と思われるところを抜きだしている。訳者の勘違いで違うところを抜くと大恥をかく可能性があるから、あそこは勇気が行ったのではないか。ということも含めて、よい字幕だった(のではないかと思われる)。

良い映画だったな。

脚本・監督 ノーラ・エフロン/JULIE & JULIA/アメリカ/2009/BSプレミアム