眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「ダムネーション・ゲーム」(上下) 感想

クライヴ・バーカー/中田耕治・松本秀子 訳/扶桑社

第二次大戦後の死と混沌に覆われたワルシャワ。盗人は、絶対に負けないギャンブラーの噂を聞きつける。どうにかして彼と勝負したいと願った盗人は、ギャンブラーを探し出す…。時代は飛んで現代・イギリス。獄中にいたマーティー・ストラウスは、大物財界人として知られたホワイトヘッドボディガードとして雇われることになる。だが彼が相手にするのは、想像を超えた恐るべき存在だった。
バーカーの長編第1作。読んで思うのは、緻密に構成されたものではないのではないか、ということ。どす黒く救いのない暗黒の世界は、情け容赦のない描写で素晴らしいのだが、物語の運び、人物の心の動き、という点においては、いまひとつ一貫性に欠けているように思われた。先に描かれた姿と後の行動に、ちぐはぐさを感じてしまう。そこが物語をきちんと紡ぐという点で物足りなく、また少々粗削りに感じた理由であり、だからこそ、長編第1作という気負いと若さを感じるのである。緻密さよりも、ほとばしり、こみあげる情動にまかせて描いた、というような。その勢いは確実に感じられ、読む手を止めさせない。

一方で、クールなダークノワールとでも言うべき世界観を顕現させている手腕には、大衆性と文学性の融合も感じさせて独特の読み応えを作り出している。原著ではどうかは判らないが、中田耕治による訳は、仏教関連から言葉を引っ張ってきているらしく、意味の伝わりにくいところも多々あるが、これがまた物語世界の構築に一役買っている。あちこちに転がる腐肉と腐臭にまみれた強烈な死、刑務所からの解放とホワイトヘッドという父を得るマーティーの再生、生と死が絡み合いながら、高見からその様子を眺め生き続ける者の達観した死生観。それらあの世とこの世の境を超越していく物語にあって、読者を煙に巻くような言葉の乱舞する様は、言葉では表現しきれないものがある、という逆説に辿り着くような不思議な面白さも感じさせた。言葉ではなく、絵に近い。バーカーは小説を書くときに、イメージとする絵を描くそうだが、意味のつかめない、読めない、聞いたこともないさまざまな言葉には、それと似たようなものを感じる。文字によって、地獄の様相をビジュアル化しようとする試みといったような。それが良いのか悪いのかは判らないが。

文庫本で上下巻の割に、物語そのもののスケールは決して大きくはなく、波瀾万丈の展開があるわけでもない。むしろこじんまりとした、そして淡々とした話運びであるが、そこから広がる夢幻世界のイメージと、生々しい殺戮描写という乗りに乗った筆の運びに圧倒される。しかもそれを、ノワールでありハードボイルドであり冒険小説でもある、愛する女を救うためのマーティー・ストラウスの孤独な闘いという形で語るのである。実にドラマティックな物語として。じっくりと読むに値する、圧倒的な熱量を持つ作品であった。

しかしながら、刊行されたのが1991年ということに驚いている。26年前!そんなに時間が経っていたかと仰天。当時、クライヴ・バーカーは鳴り物入りで登場したホラー作家だった。そして同時期には、キングを筆頭に、クーンツやマキャモンやジョン・ソールやF・ポール・ウィルスンといったモダンホラー作家が多数紹介されていた。良い時代だった。その中で手にしたこの「ダムネーション・ゲーム」、実は全く面白くなかった。クーンツやマキャモンのような判り易い娯楽性に欠け、観念的過ぎたことで、退屈だ退屈だと思いながら読み終えたものである。それを今更読み返してみたのは、あの頃の自分の評価など全く頼りにならないのが判ってきたことと、何より脊髄反射的な面白さを求めなくなったことが大きい。次へ次へ、という読み方ではなく、じっくりと読みたい、という読書傾向の変化である。鈍重に思えた小説も、そういうものとして読めばもしかしたら面白いのではないか?という思いが生まれてきた、ということ。そして事実、面白く読めた。若いころの評価や感想は、絶対的なものではない。本は読み返す、映画は見直す、これは大切なことですね。