眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

『フッテージ』をみる


シネリーブル梅田にて。

ホラー映画をみるときに何を愉しみとするか。人それぞれとはいえ、個人的には、どれくらい怖いのか?ということ。そしてその怖さの源は何か、といえば、得体のしれなさ、に尽きる。白石晃士の『ノロイ』をみたときに、それがはっきりしたのはもう何年前になるだろうか。何か恐ろしいことが起きているけれど、具体的には良く判らない、しかも緊迫しているこの瞬間から逃げないと本当にやばいことになる、という感覚。ドアの鍵穴から向こう側を覗くと、何かが起きているのは判るけれど、如何せん鍵穴からでは全貌がまるで見えない。断片的に見える様子から全体を想像するしかない…。というあまりにも頼りない状態に置かれることの恐怖、不安こそがホラー映画が描くべきものではないか、と思っている。『インシディアス』にしても『フッテージ』にしても、娯楽映画としては及第点であろうとは思う。不気味な雰囲気もまがまがしい物語も、充分に観客の期待に沿えるものだろうとは思う。が、物語としてきちんとまとまっていくのでは、得体のしれなさ、からはどんどん遠ざかっていく。現実世界では物事が割り切れることはなく、真相は闇の中に消えてしまうことが多々あり、わたしが思う、ホラーにおける得体のしれなさはそれと繋がっている。でもこの作品はどんなにおそろしい物語であっても、物語という枠の中で、物語としてすべてが決着してしまうので、現実と地続きな恐怖にすらなっておらず、映画としては楽しいし面白いけれど、ちっとも怖くない、という最近のホラー映画をみて思う不満の轍を踏むことになる。が、まあそんなふうに思っている人間もそうそういるとは思えず、こんな屁理屈で映画をつまらなくするのもどうかと思うので、『インシディアス』を怖いと思った人は見ればよい、くらいの感想にしておく。

画面が暗くて俳優の顔がまるで見えないような、黒く塗りつぶすかのごとき撮影の恐ろしさは素晴らしく、演じるイーサン・ホークの、恐れながら先に進んでいく厚かましさ、あとに引けないけどへっぴり腰気味な具合が絶妙、家族に対する自分勝手すぎる行動と言動が痛々しいほどで、精神的に追い詰められていく作家の話としては、妻役のジュリエット・ライランスとの掛け合いのうんざりするような喧嘩の場面も含めてなかなか味わいがある。

あと、クリストファー・ヤングの音楽がうるさすぎるのがつらかった。やたら鳴り響く、多様なジャンルがミックスされたような音楽がやかましい。この音楽の演出を褒める人は、たぶん、怖い映画をこの作品に求めていないと思う。

イーサンが庭で黒い犬を見る場面があって、『オーメン』を思い出したんだけど、セリフでは「クージョみたいな云々」と言っているようだった。クージョって今でも台詞に使われるくらい有名な犬なんだな。それともホラー映画だから、あえて、なのか?