眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

黒いねこ面

「赤んぼう少女〜楳図かずお作品集〜」から。

初出一覧によれば、週間少女フレンドの1966年(昭和41年)30〜45号に連載。「赤んぼう少女」は翌年の30〜45号で連載となっているから、まるまる1年前の作品になる。この2作の作画には明らかに差があり、「ねこ面」が少ない線で、単純なのに対して、「赤んぼう少女」ではよりリアルになり、影が強調されて、おどろおどろしい絵の力が強調されている。これら以前の作品にも、年少読者向けの丸っこい絵と、大人向の劇画とがあったのだが、ここらへんで、雑誌によって変えていた絵柄を統一し始めたのだな、と。年少読者よりも、上の層が中心になってきたからだろうか。いずれにせよ、あれだけ絵柄を変えてたくさんの作品を描いていたという事実は、飛び抜けた異才ぶりであると思う。

「黒いねこ面」の冒頭部分は、プロローグというには気合の入り過ぎた50ページ。しかも時代劇。話しが一応の決着がついたところで、月日が流れて現代になる…という展開である。恐ろしいのは、「真景累ヶ淵」のように、何の関係もない子孫に過去の因果が祟るという、救いようのない話しだということ。しかしながら、先祖の罪が祟られて、生まれた我が子が猫(のよう)だったからとはいえ、医者という立場でありながらも、他人の子とすり替えるというのはあってはならないモラルの破綻ぶりで、この時点ですでに最悪の結果が導かれている。ドラマは、成長した猫人間が、顔を整形したいと訪ねて来たことから、恐るべき事態を招いて行く。主人公えみ子は猫娘の恐怖に怯え、逃れようとするが魔の手はすぐそばまで這い寄っていたのだ。

なんとも陰惨な話しで、我が子を忌み嫌う父親と、先祖の恨みを抱えて実の父に襲いかかる娘。この二人が、えみ子という娘を巡って殺し合いになる。えみ子と同じ顔を手に入れて、父親に接触する娘という構図には、ねじれた愛情の渇望が、うっすらと透けるようでもあり、なんともやりきれない。しかもこの話は、最終的に誰も救われない。怒りや悲しみを、何処にも持って行きようがない、という理不尽さがあり、無常感だけが過ぎ去っていく…。

猫は恐怖の対象であるかもしれないが、猫好きとしてはそうはあまり思えないのが歯がゆいところであり、猫娘である大森たまみ(!)の素顔は、別に怖くないというか、むしろ可愛いというか…。後半、怪物化してしまうと別物だけど、最初はキュートといってもいいかな…。あと、時代劇の部分だけど、猫が行燈の油を舐めるのは、当時は鯨油だったからとも言われ、だとすると、油揚げは食べないんじゃないか、とか…。あ、豆腐を鯨油で揚げてたら食べるか。猫が化けた殿の母は、隠れるようにして油揚げを食べるんだけど、好きなんだなあとしか思えないんじゃ。鈴を転がして遊んでも、まあそんな気分のときもあるかなあ、とか。これは親しい人の変貌ということが怖いのだが、描写が直接的過ぎる…というか、素直過ぎるせいで、恐怖と密着していない。単純に殿の母が、どうにも可愛くみえてしまって、でもそこが好き。

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