眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「家」 感想

監督/ダン・カーティス

あらすじ

夏の貸別荘を求めて田舎の町へやってきたある家族。豪華な邸宅が、2か月強の滞在で賃料900ドルという安さもあって、妻はどうしても夏をここで過ごしたいと主張。貸主である老いた兄妹のうさん臭さもあり、夫は反対するが、結局渋々承諾する。こうして夫婦の息子、夫の伯母の4人で夏のバカンスが始まるのだが…。

オリジナル予告編

感想
先日、イマジカBSでHD放送されたが画質は良好だったそうで何より。こちらはリマスターされる前のDVDで再見した。ぼやけた画面は、懐かしい70年代の香りに満ち満ちている。きれいな画面で見た方がいいに決まっているが、ノスタルジーという一点においてのみ、DVDにも価値がある。当時を知る人にとってだけ、であるが。

特撮や特殊メイクと呼べるような、大仕掛けな見せ場はなく、徐々に異常行動が酷くなっていく家族の描写だけで語る怪異譚。それだけに俳優たちの演技が、映画の出来栄えを大きく左右するのだが、出演者は全員、ほぼ完璧な芝居ぶりではないだろうか。

以下、ネタバレ前提で書いています。

上階に住んでいるアラダイス夫人の世話をするカレン・ブラックが、次第にぼんやりうっとりと夫人の部屋に入りびたりになる様子。息子が置物を壊してしまった時の激しい動揺。伯母が息子の部屋に入っていたことを知った時の激昂ぶり。その落差の激しさが恐ろしい。

夫のオリバー・リードは、最初からこの家が気に入っていないが、冷静な人格者である。ところが、とりつかれたように息子をプールで溺れさせようとする暴れぶりの凄まじさが強烈な印象を残す怪演。この暴力衝動はときどき突き上げてくるようにも見受けられ、加えてそこに子供の頃、母の葬儀でみかけた葬儀屋(?)の姿が白昼夢のように見え始める。彼にとってはそれはトラウマで、死を象徴するものとして段々近づいてくる。自分が今、危うい状態にあることを冷静に感じながらも、その恐怖から逃げられない焦燥を巧みに演じていて、素晴らしい。

息子を演じているのはリー・ハーコート・モンゴメリーだが、年齢もあがっていて「ベン」のときよりも少し大人っぽくなっている。それだけに、素直な表情にしろ、恐怖に怯える姿にしろ、実に繊細に変化をつけた芝居をしており、達者だなと思わせる。特にオリバー・リードとの絡みではいい表情をみせていて、撮影時のふたりの関係は良好だったのではないかと想像した。でなければ、二人とも相当の手練れということになるが。まあ事実そうだけれども。

伯母を演じるのは、ベティ・デイビス。軽快な芝居で、以前の映画で見せた狂気の人の影は全くない。もっとこういう軽いベティ・デイビスを見たかったと思ってしまうが、次第に体調を悪くし、精神的にも追いつめられてからがこの大女優の演技の見せ所。気弱で、折れそうな頼りなさへと変化したかと思うと、死の直前の、息も絶え絶えの壮絶な断末魔の叫び。

そしてこの家を貸し出す老いた兄と妹を、バージェス・メレディスとアイリーン・ヘッカートが演じているのだが、この二人の醸し出すうさん臭さがまた見事なのである。一見、信用のおけそうな、しかし裏側に何か隠している感がありありと感じられる得体のしれなさがあって、不気味。

以前から、ホラー映画を面白くするのは内容と共に俳優の演技ということは、何度も書いているのだが、ここでもそれを強く感じた。いわば、超常現象などを相手にした現実的ではない演技をどこまでシリアスに、リアルなものとして演じるかという部分こそが、ホラー映画をより、らしく見せるためのポイントなのだろう。この作品の俳優たちは、元から技術的に達者な人たちということもあるが、恐怖に対する演技のアプローチが多面的で、それが映画自体に膨らみをもたらしている。ホラー映画であっても、俳優の演技を愉しむことの出来るドラマ映画としての面白さもここはある、という印象。映画自体にはさほど軽快さはなく、どちらかと言えばスローペースだが、ドラマを愉しむ、演技を愉しむことも念頭におけば、このペースも決して悪くない。いや、じわじわと異常さが高まっていくには、日常と異常の違和感が急激であっては出しにくいものではないのかとも思え、このペースはこの映画にとっては必然だったのだと納得がいく(個人的に)。

作品中、一番の衝撃は、アラダイス夫人の正体に尽きる。とは言っても、カレン・ブラックが夫人用の食事をもりもりと食べ始めた場面で、不吉な予感が誰しも走るだろう。しかし、ここに至るまでに、カレン・ブラックが徐々に夫人になって行っていると感じさせる場面は直接的にはない。夫人は普段、音楽を聴いたり写真の手入れをしたりしている、という話を老兄妹からは確かに聞いたが、だからといって、カレン・ブラックがオルゴールを開いて音楽に聞き入ったり、写真立を磨いたり、ということが直接アラダイス夫人につながるという風には描いていない。むしろそこは、さりげなく、日常生活の一コマ程度の描写に抑えられており、特異な場面として印象に残らないようにかなり意識して撮られている。これはいわゆる伏線と同じものである。あからさまに見せない、伏せられた線という意味では、かなり見事だと思う。この結末を知ったあとに、もう一度見返すと、最初に、夫人が食事を取ったことでカレン・ブラックが安心する場面からして、不気味さの濃度は極端に上昇する。いつどの時点で、ブラックが家に魅入られたのかと想像するのも面白いし、彼女の言動がおかしくなっていく様子も、また違った視点から見ることになる。息子が置物を壊すくだりも、夫人の部分が強く出ているからこそのあの嘆きぶりだと判るし、着ている服が後半に行くに従い、やけに古風で大袈裟なものに変化していくのもなるほどと思えるのである。ということで、二度目を面白く見られるという意味で言えば、極めてミステリ寄りの映画ということも出来る。この作品は、最初にテレビで見たときから凄く面白いと思い大好きだったのだが、このミステリ風な見せ方にこそ、面白さを感じたのだろうなと今更ながらに思い至った。

きちんとした解決がなされないまま終わるので、不可解なことが放置されたままである。その最たるものが、あの老兄妹は何者か、という疑問。家が生まれ変わるために生贄が必要なことは判る。家の主人が必要なことも判った。主人が年老いて死ねば新たな生贄によって新たな番人として生まれ変わることも、なんとなくだがそういうことだろう。だが、あの兄妹は何なのか。彼らはアラダイス夫人を母と呼んでいるが、本当の母親ではないのではないか。彼ら自身もどこからかやってきた赤の他人で、いつの間にか兄妹と呼ばれる者になってしまったのではなかろうか。しかも、兄も妹も、他人同士で。もしかすると兄妹というのも、人によって時代によって、親子になったり従妹になったりしているのではなかろうか。などと考えるのも愉しい。作劇上のミスや矛盾と思われるものを、欠点とあげつらったり、突っ込みどころとして笑う傾向は今もあるが、それよりもその矛盾点に何らかの意味や理由を見つけ出したり、作り出す方がずっと愉しいと思うのだが、皆さんはどうですか。

ダン・カーティスは「事件記者コルチャック」など、主にテレビドラマで知られる監督だが、この「家」もスケール極めて小さくこじんまりとしているからこそ、彼の持ち味が生きているように思う。音楽のロバート・コバートも、カーティスとは何度も組んでいることもあり、いかにもな旋律で映画を盛り上げる。余計な色気を出さない実直さが素敵。

DVDは廃盤。イマジカBSでは吹替も放送されたようだし、音源はあるのだから、それも収録したブルーレイがそろそろ出てもいい時期ではないかな。