眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「ビッグ・マグナム77」 感想

監督/マーティン・ハーバート(アルベルト・デ・マルティーノ)

あらすじ 
大学生の妹ルイーズ(カロル・ローレ)が突然死。刑事トニー(スチュアート・ホイットマン)は呆然とする間もなく、工事現場で発見された身元不明の死体の捜査に協力するが、妹の死とこれに繋がりがあると直感。妹は殺されたのではないか…。事件を追いかけたその先で、トニーを待つ真相とは…。

DVDトレーラー。見せ過ぎじゃないかな?

追記(2018.4.11.):廉価盤DVDが2018年5月30日発売予定。さすがに↑通常版の、初回プレスのみのおまけだったBD‐Rはつかないか?


感想 
派手なカーチェイスが目玉の映画なので、てっきり犯罪アクション映画だと思って見ていると、実はそうではないのがお愉しみである。と同時に、人によってはがっかりさせられるところでもあるだろう。何を隠そう、あまりにも地味な展開に不完全燃焼だったのは、この作品をテレビでみた当時、小学生(か中学生)だった、わたし自身だったからである。改めて再見してみると、映画の筋立てと作り方は、サスペンス映画の方に振れている。派手なアクションがあるためにアクション映画だと思っていると、そこで肩透かしを食らうのである。子どもの頃にみたときの微妙に盛り上がらない感じは、そこに理由があったのだ。ということが、はっきりとした。が、今となっては、そここそが面白いとも言える。見方が変わると映画の印象も変わる。

映画は冒頭からして派手なアクションで幕を開ける。銀行強盗犯を追い詰めて、自慢のマグナムでぶち殺す主人公トニー。さらに中盤では、オカマ(字幕準拠)たちと乱闘と、劇中一番の盛り上がりである延々続くカーチェイス。特にこのカーチェイスは、ボコンボコンと車体をぶつけあい、街中をおかまいなしに暴走させる傍迷惑さが、如何にも70年代アクション映画の凄みすら感じさせて圧巻。2台の車が列車の上を続けざまにジャンプする危険なスタントも見どころで、延々と走っている途中でいきなり路面が濡れていたり(雨も降っていたか)、次のカットでは元に戻っていたりという強引さ、やっつけ感(スケジュール的にどうしてもその日に撮るしかなかったのか)も含めて、カナダを舞台としながらもマカロニな映画制作風景が見えるようで、なんとも微笑ましい。オカマとの乱闘も、意外なほどに時間を割いている。ビルの屋上でのアクションには、ビルの縁からぶらさがるといったスタントもあったりして、見せ場という認識だったということなのだろう。実際、見せ場になっているのは間違いないのだが、手がかりを発見して、それを知る人間に話を聞きに行く、その人物が抵抗、追跡・乱闘・カーアクションに、という展開が同じなので途中で飽きてくるのは、勿体ない。

以下、ネタバレを前提として書いています。




イタリア映画ということもあって、印象としてはジャーロ(ジャッロ)映画の雰囲気もかなり強い。後ろから近づいて、棍棒(鉄パイプ?)で女性(実は女装の男)を殴りつけるところも、血こそ流れないものの、執拗に振り下ろされる棒と殴打する音が陰惨である。しかもそのあと、工事現場の破砕機に捨てられて、ぐしゃぐしゃになった状態で死体が発見される。死体は手元くらいしか映らないものの、充分に残酷テイスト。事件関係者の中に盲目の学生ジュリー(ティサ・ファロー)がいるが、彼女に危機が迫る描写などは、変態殺人鬼の魔の手が迫る感じが濃厚。彼女の部屋でマージー(ゲイル・ハニカット)が犠牲になる場面も、室内の闇の描写、ナイフが刺さる描写など、犯罪映画というよりもホラー映画のそれ。これらの陰気な空気と描写は、どうみてもアクション映画としてのリズムでもテンポでもなく、よくよく見れば、アクションシーンの派手さと分離しているのではないかという気もしてくるほどである。

もうひとつ嬉しいのは、単にサスペンスなのではなくて、ミステリ映画でもあるということ。あれこれとしのばせたミステリ趣味は、ちょっと嬉しいものである。登場人物の怪しげな行動が、かつての強盗殺人事件へと繋がっていく過程は、トレイサー博士(マーティン・ランドー)とルイーズが口論している開巻の場面に始まるミスディレクションが効果的に生かされて、意外な事実として浮上してくる。何故彼らが殺されなければならなかったのか、という真相は、明かされてみれば大して複雑でもないのだが、無駄な人物や無駄に意味深な表情や描写を入れているので、妙に解明ルートが入り組んだ感じがするのも面白かった。過去の強盗殺人事件の片棒を担いだ人物と、今回の殺人事件でルイーズに協力していた人物が別人だというところにも、ミステリ的な引っかけを感じた。この協力者とは、マージーの弟ケリーだったのだが、ルイーズとケリーが行動を共にしている事実がある以上、過去の強盗殺人事件にも二人は関りがあるのでは、と想像させるのである。そのため、クライマックスで真犯人が話す回想の段では、「実は、違う人物だったのだ」という、叙述トリックに近いものが生じているように思う。が、それを眼かくしするために、もっとうまく機能させられたはずで、そこが惜しい。強盗殺人事件の犯人は、ルイーズとケリーだったと強く思わせることが出来ていれば、真犯人の告白にひねりが生まれていたはずである。しかしそこは、おそらく脚本家としても意図していない部分だろうし、こちらが勝手にそうとらえただけで、他にそんなことを思った人間は誰もいないかもしれない。

他にも、犯人とされた人物が首つり自殺するのに使った椅子の高さとか、刑事二人が事件の経緯を学生や教授の前で話すとか、ジュリーの病室から看護師を退室させるトレイサー博士の怪しさとか、ミステリ的な段取りを踏まえた、意外とまっとうな描写があって、これらは「なるほど」と思わせてくれる。そんなところも含めて、やはりこれはアクション映画ではなく、ミステリ寄りのサスペンス映画だったのである。

意味ありげだけど、結局何でもなかった、けれどその含みは気になる、という場面がいくつかあるのも面白い。トレイサー博士と妻の関係は、どうみても冷え切っている。が、そうなった理由は、ルイーズを救おうとした結果、家庭を壊してしまったことが語られたりするのである。それ以上は語られない。ルイーズがどういう風に、夫妻の関係を壊したのかも判らないままである。またマージーと、トレイターの息子は、男女の関係にある。意味ありげに視線を交わしたりするが、結局それ以上のものはないまま。父の目を盗んで、父とも昵懇の大学関係者と寝る息子。誰とでも関係を持つ女。ケリーが女装していたことも、それ以上の何かはなし。これらは、ほとんど捨てネタである。観客を惑わせるため以上のものはないのに、それでもそこに生まれてしまう人生の断片や悲哀。こういうところに、味わいを感じてしまうのである。むしろ、映画の愉しみとは、こういうところにあるのではないか、とも思うのである。

スチュアート・ホイットマンは、カロル・ローレと兄妹というには年が離れすぎている。娘ではダメだったのか。とても兄と妹とは思えない…。が、これが俺流の正義の示し方だ!とばかりに、強引な捜査を繰り返したあげくの真相を前に浮かべる渋面には重みがある。ラストで犯人の乗ったヘリコプターを撃ち落とすところで見せる、苦み走った表情などは、ホイットマンならではの重量感で、迫力。カロル・ローレは、後の「勝利への脱出」くらいの印象しかないのだが、ここではダークネスな魅力をふりまいて裸までみせるサービス。ゲイル・ハニカットも妖艶。美しい。裸はないものの、スケスケの衣装がいやらしい。そしてティサ・ファロー。可愛い。返す返すも、引退が惜しまれる。

実は、映画が終わっても「?」と思うところが残っている。真犯人はどうやってルイーズを殺したのか。どのタイミングで、どこで毒を盛ったのか。具体的な殺害方法は判らないままなのである。まあ、映画としてはそれでも何も問題はない。こいつが犯人だ、ということがはっきりすれば、殺害方法などは枝葉の部分に過ぎないということだろう。

それから、タイトルが「STRANGE SHADOWS IN AN EMPTY ROOM」だったことも書いておく。これはアメリカ公開版で、ランニングタイムは99分。オリジナルは105分らしい。カットされている6分間には、何が映っていたのだろう。オリジナル版を見る機会はまだ残されているのだろうか。

STRANGE SHADOWS IN AN EMPTY ROOM/カナダ=イタリア/1976/