眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「シン・ゴジラ」 感想

脚本・編集・総監督 庵野秀明/2016/

ハリウッド版から2年、日本映画としては12年ぶりのゴジラ庵野秀明の「総監督」という役割がいまひとつ判りづらく、実質、樋口真嗣の映画ではないのかと不安にさせ(「進撃の巨人」のあとということもあるし)、さらに気づくと准監督として尾上克郎の名前もあって、なんとも落ち着かない気持ちにさせられた今回の新作。いわば監督が3人いる上(船頭多くしてなんとやら…にならないか)に、第四班まであるという(D班には庵野の名前もある)体制での撮影で、これはかなりスケジュール的にも厳しいのではないかと容易に想像させ、満を持しての予告編では、肝心のゴジラが、ぼーっと二足歩行をしている姿に、更に不安にさせられて…ということを繰り返しての、公開である。期待と不安がないまぜになっていたかというと、しかしそうでもなく、やはり12年ぶりの日本のゴジラ、ということに大きな期待をかけて観ることになった。

以下、ネタバレを前提とした文章を書いています。

東宝マークが出た後に、さらにもういちど、画質が落ちた…という感じで、昔の東宝マーク、そして昔の「東宝映画作品」のクレジットが出るところで、監督たちと同じようなものを見てきた人間(おっさん連中)は、グッとくるものがあっただろう。こればっかりは若い世代には、感じることの出来ない我々の世代の特権である。
追記:これは勘違いだろうか。「東宝映画作品」は東宝が製作した映画のことで最近だとゴジラ映画くらいでしか目にしていないクレジット。今回の「東宝映画作品」で懐かしさを覚えたのは、70年代の「東宝映像」のクレジットに似せて作らせていたからなのでは?と今さらながらに思ったのだが、同時に84年版「ゴジラ」では、このクレジットがあったようにも思え…。ちなみにこのクレジットはスタジオカラーで製作されたもののようです。

映画はほぼ助走もなく始まり、あっという間に事態が緊迫していく様子を切り取っていく。序盤は、見ている側が状況を把握する前に、次のカットに移動していくという編集が取られており、「新世紀エヴァンゲリオン」でもよく使われていた庵野アニメ的なリズムで見せていく。「エヴァンゲリオン」では、小難しい専門用語やセリフが連続し、それがやたらとかっこよかったが、今回の映画はそれを踏襲したかのようで、エヴァが存在しない実写版「エヴァンゲリオン」番外編と言ってもいいような趣である。会議室の場面が多いことも、その印象を強くさせているのだが、もうひとつ「エヴァ」っぽいなあと思わされたところがある。途中から対ゴジラ特別チームが、長谷川博己を中心として編成される。こちらはより小さな部屋で活動することになるのだが、物語のキーパーソンの一人である、石原ひとみもここを訪れて意見を述べるところがある。その颯爽とした佇まい、まさに葛城ミサト(性格的にはアスカっぽいが、外見や立場はミサトだろう)が実体化したかのようでたまげる。まるでヤシマ作戦!しかもバックには、「エヴァンゲリオン」のBGMがまんま流れるのである!というわけで、「ゴジラ〜?興味ないなあ〜」と思っている「エヴァンゲリオン」ファンの人はまず必見の映画となっていた。

ゴジラが初登場する場面からして、これまでのゴジラ映画を激しく逸脱するものになっていて、これも驚かされた。東京湾から出現した巨大不明生物は、巨大なウツボに足がついているような異様な姿(停泊してある船がバリバリと破壊され、岸にどんどん乗り上げていく。川を北上していく姿は、津波が街に押し寄せた状況そのまま。東日本大震災のあの様子の再現のようである)。ギョロッとした目玉にまるで生命感がないところが不気味で恐ろしい。しかしこの段階では、この生物は何なのか、観客の側にもよくわからない。が、中には「まさかな…ゴジラ映画でそんな8掟破りような)ことが…」と先の変化を想像する人もいたと思うのだが、唐突に腕を生やし、立ち上がり始めたところで「これがゴジラなのか!」という衝撃と動揺が走る。形態を変えていくことで、観客の知るゴジラの姿に変わっていく!これまでのゴジラでは決してありえない展開である。ここで、「ああ、これは我々の知るゴジラではない…」という衝撃と、未だかつて見たことのないゴジラと相まみえるという、初めての体験が生じるのだった。見たことのないものを見せられるという予感。この先の展開に、想像しえないものが現れるのではないか…という予感は、大げさに言えば畏怖に近い。そしてそれは、ある意味では、その通りなのだった。

さらなるゴジラ像を破壊するのが、熱線を吐く場面だった。これまでのゴジラの吐く熱線は、青白いものに統一されてきたが、今回は紫色。しかも吐くときに、顎がぐっと下に開くような形になる。上空から接近する戦闘機に対して、背びれからも光がビームのように放射されるのも衝撃的。周囲に接近するものすべてに反応するビーム。急激に進化することで、形態を変えてしまう超生物。驚異の瞬間を目にするのは、劇中人物だけではなく観客も同じなのである。イメージが固まっているキャラクターだからこそ出来る、離れ業のようなもの。ゴジラのイメージをことごとく裏切っていく描写に恐れ入った。初めて怪獣という存在に触れて驚愕する劇中人物と、これまでのゴジラ像を大きく外れていくゴジラに驚愕する観客とが、驚愕という一点でシンクロしていく。

この太刀打ちの出来なさそうな圧倒的な破壊力と絶望感は、まさに第1作以来と言っても良いのではないか。そして第1作の背景に、太平洋戦争と原爆があったように、今回は、東日本大震災と福島の原発が背後に大きくのしかかっている。あの現実が映画を支配している。そういう意味では、第1作と対をなす映画になっているとも言える。現実の過酷さゆえに、第1作に比肩し得る映画が登場したというのも皮肉な話だが。

想定外という言葉を簡単に使う閣僚や、そんなもん(巨大生物のこと)いるわけないだろ、という事実を見ない思い込み、(無意味な)会議をして各部署との調整をしてやっと動くシステムによって後手後手に回る対策方針…。そんな現在の政治の進め方をしている閣僚たちは、その大半が死んでしまう。しかし、現場では多くの人たちが、自分の仕事を進めている。政治の中枢にいる人間がいなくなっても、日本を救おうという人々の戦いは変わらずに進む。空いた穴を埋めるのは、この現実を目の当たりにし、最前線で戦った人たちから生まれる。映画のラストは、すがすがしいほどにそう言い切っている。過酷(戦争や地震)を過去のものとし、現実を見ようとせず、その現実に寄り添おうともしない、今の世代はもうだめだ、望みは次の世代へ…つまり、この映画をみている若き君たちへ繋いでいく、ということだ。庵野監督からのメッセージを、若い世代にはぜひとも受け止めていただきたいものである。

CGとミニチュアを使って表現された都市破壊など、特撮に関しては、これも想像していたよりずっと良かった。もっとミニチュアぽいのかと思っていたが、そんなこともない。比較していいかどうかはわからないが「進撃の巨人」のアナクロ特撮(けなしているのではない)とは違い、見た目は、今っぽい映画になっている。予告では、ゴジラがほとんど動かないので、大丈夫か?と思ったものだが、これも中盤になるとかなり動きがあり、杞憂であった。まさか演じているのが野村萬斎だったとは、という衝撃もあり、それを知ってしまうと、なるほど前半のゴジラはあれはあれでよかったのか…とも思ってしまう。第2形態もやってるんなら凄いけど、さすがにあれは違うんでしょうね。

俳優たちは、とにかく早口でセリフをしゃべるという演技をやらされており、見ているこちらも、このセリフの応酬にはついていけなくなるところも多々。しかしその中でも、それぞれのキャラクターをちゃんと生かした芝居をしているのが素晴らしいところ。特別対策チームは個性の強い面々の集合体で、非常にオタクっぽい(自分の主張をする、曲げない、早口、独り言、変に目立つ)描写が満載。この人たちが日本を救うのだから、ある意味痛快。まあそこらへんの凡庸なオタク(わたしを含む)とは違い、彼らはエリートだけど、どっちかというと世間から変人扱いされている人たちが、頑張って仕事をやりぬいて勝つ、というのが素晴らしい。

他にも、岡本喜八監督へのリスペクト、伊福部昭の音楽を使う抑えきれぬマニア心(ゴジラ上陸の際、ゴジラのテーマを「ゴジラの恐怖」バージョンで使っている。ヤシオリ作戦では、同じモチーフでも「怪獣大戦争」ではなく、「宇宙大戦争」の方を使うこだわりがマニアック)、東宝のライブラリーから引っ張り出してきたかと思われる効果音の数々(爆発音、破壊音)と、庵野監督の趣味もかなり反映されていると見受けられる。一般観客を向いて作られているの同時に、マニア心も色濃く残っている。ある種の歪さも感じるのだが、これらはギリギリかもしれないな。人によって反応が違いそう。ともあれ2014年版とは、全く趣の違うゴジラ、ぜひとも劇場で楽しんで頂きたいな、と。

追記:血液を凝固させるヤシオリ作戦をみながら、第1原発を冷やして封じ込める計画を思い出していた。しかし凍土壁が凍らない、ということで失敗に終わったはず(継続中か?)。成功していれば、ゴジラの封じ込めにもっと生々しさが生まれていたかもしれないが、現実はそう簡単にはいかない。