眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「ハロー!?ゴースト」 感想

〈あらすじ〉恵まれない人生を歩んできたサンマンは、自殺を決意。薬を飲んで川に飛び込むが、助かってしまう。ところがそこで、幽霊に取りつかれてしまった。エロ爺、ヘビースモーカーのおやじ、泣いてばかりのおばさん、生意気なガキ、計4人。早く死にたいサンマンだったが、彼らを成仏させない限りそれは無理だと霊媒師に言われ、仕方なく幽霊たちの願いを叶えるために奔走することになる。

2010年の映画で、日本公開は2012年。公開されたときから、やれ感動的だの、最後の展開がどうだのと言われていたので、ずっと気になっていた。やっと見る機会が訪れたのだが…。

以下、ネタバレを前提とした文章を書いています。万が一観ていない場合は、これ以上読まないでください。絶対に、何も知らないで見た方がいい映画です。






サンマンを演じる、チャ・テヒョンに、この映画はだいぶ頼っている。頼りない情けない憎めない、三拍子そろった安心感のあるテヒョンの個性ゆえに、サンマンは、映画世界内の現実に、ちゃんと存在する人間になっている。児童養護施設で育ったという過去があるとはいえ、少々社会と剥離した感じがサンマンにはある。無免許で警察にやっかいになる場面。警官が「身元保証人に連絡しろ」というのだが、サンマンにはそんな人がいない。思わず警官が「どんな生き方をしてきたんだ」と漏らす。世の中には、身寄りがない人はたくさんいるだろうが、サンマンもまたそんな立場に立たされた人間である。恋人も友人もいない。会社の同僚や上司や近所の知り合いもいない。しかも仕事もクビである。世の中の誰とも接することなく、仕事もなく、ただ死にたいと考えている人間。現実に考えれば相当な鬱状態にあっておかしくない。コメディとはいえ、あまりにも重い。そんな人物とその人生の悲惨さを、笑いに変換させるようなことが誰に出来るのか?という問いに、テヒョンは軽やかに応えている。彼の軽さなしに、この映画は成立しなかったのではないかな。とりついた幽霊たちまで演じると、全部で5役。それぞれを楽しく演じて見せて、映画全体を包む死の気配を、笑いへと導いていく。脚本と監督は、キム・ヨンタクだが、丁寧に語ろうとし過ぎたために、映画自体が少々間延びした感じになっているのは否めない。ともすれば退屈になりかねないところを、テヒョンの軽快さがかなり救っているようにも思えた。

幽霊たちの願いをひとつひとつ叶えていくところが、それぞれ見せ場になるのだが、これ、という見せ場を作っていないので、娯楽映画としてはメリハリに欠けているように思われる。本来なら、ここで大いに笑わせてもらいたいところなのだが…。タイミングとかシチュエーションとか、工夫することは出来たろうが、そこまでは手を尽くされているとは思えず。良いように言えば、非常につつましやかに品がよい。おそらく本国では、馴染みの俳優さんたちの芝居に笑いが起きていただろうとは想像され、それならそれで別に問題はないが。おそらく他国で見られることを想定して作っていないだろうし。

が、この少々物足りなさの残る幽霊たちとのエピソードには、あれこれと伏線となる台詞や行動が仕組まれている。刑事から海苔巻きを差し出されて言う「ほかの家のものは口に合わないので…」という台詞。「どうして免許を取らないんだ」と聞く警官に言う「車が怖くて…」という台詞。くじで当てた飴を病気の少年にあげようとすると、生意気小僧が「なんであいつにやるんだ」と怒ったり、泣き虫おばさんとの買い物で、おばさんがやけになれなれしくサンマンと腕を組んできたり…。タクシーもカメラも海苔巻きも「テコンⅤ」も、クライマックスの衝撃の瞬間、すべての意味が判るように、実に見事に並べられているのだった。これほど、「ああそういうことか…」と、走馬灯のように感じられるネタばらしもないんじゃないか。鮮やかであり、ショッキングであり、思い出すだけで泣けてしまう悲しい瞬間である。凄まじいのは、事故の車内を映し続けること。トラックにぶつかって弾かれ、転落していく間の車内の5人の姿を、見せるのだ。サスペンス映画とかアクション映画ではみかけても、こういう映画ではなかなかここまでやらないのではないかな。パニック状態の恐ろしさの中、最後まで子供を守ろうとする母の姿に、猛烈な勢いで涙が流れた。

この悲劇的なクライマックスを、しかしそのあとで感動的に終わらせるのが素晴らしい。サンマンは実は一人ではなかった。孤独だと思う必要はなかった。ずっと見守ってもらっていたのだ、と判る写真の場面にも涙止まらず。なんという善意に満ちた映画なのだろう。死を題材に観客に涙を強いる映画は世界中に数多あるが、これほど辛く、にもかかわらず感動的にまとめられた作品は、それほどないんじゃないのかな。言葉は悪いかもしれないが、涙の搾取映画としては、最上級の部類。参りました。

以下、つらつらと思ったことを。

キム・ヨンタクは、優しい人ではないかと思う。優しさゆえに、切るに切れず、映画全体のバランスを崩しかねない作りにしてしまったのではないか、とも想像する。エロ爺の幽霊が、ホスピスに暮らす友人にカメラを返しにくる場面があるが、その友人ク・パンス(だったかな。佐分利信に似ているんですよ、この俳優さん)の話は、実はもっと長かったのではないか、と思われる。ひい孫もいる人だが家族からはそれほど大切には扱われていないようだ。電話をしても途中で切られてしまう。まして先はそれほど長くなく、一緒に暮らしている患者たちは次々に亡くなってしまう。そんな孤独な日々の中、昔懐かしい友人が現れて声をかけてくる…。この場面の、はっとして振り返るク・パンスの表情には、映画の前半を支え切れるほどの力があると思えたのだが、パンスの話はその後、あまり重要ではなくなる。あんなに劇的な瞬間として演出されているのに…。しかし、パンスは後半まで、登場はするのである。現実の側から、死をみつめる役割を担っている。看護師のヨンス(カン・イェウォン)と父親との関係も、彼が間を取り持つような役回りなのだが、それも形だけのようになってしまう。最初から無いかもしれないものを、まるであったかのように想像するのは、いつもの悪い癖でいかがなものかと自分に問うわけだが、パンスの存在がもっと重かったのではないかと、返ってきたカメラにつけられた傷をみて彼がほほ笑む場面を取ってみても、決して穿ちすぎでもないのでは、と思うのである。

また、ヘビースモーカーと、中古車場にいく話もそうだ。中古車屋オーナーらしい人物が「妻が浮気して出て行ってしまった。俺が車に夢中すぎるから」というので、サンマンは奥さんを連れ戻す代わりに、車を譲ってくれと頼む。奥さんが旦那の元を離れたのには実は理由があって…というこのパートも、ヘビースモーカーの願いを叶える、ということとは少しずれている。だが映画の主題をより明確にするためには、それでも語らねばならなかったということなのだろう。この夫婦の物語は映画全体としては脇のエピソードにすぎず、しかしまるでそこが映画のクライマックスであるかのように感動的に描かれている(ヨンスと父親の話も同様である)。が、話としては劇的に、また描写も丁寧にされているのに、どうして映画全体としては盛り上がらない感じがするのか。これらのエピソードは、当然、テーマ(家族、愛情、孤独)として、映画のラストで結びついてくるはずのものである。ところが隠し味的なはずのスパイスが、前面に出過ぎてしまった。料理としては歪な味になってしまうのも仕方なし。この作品を、非常に感動的な映画とするのには何ら異論はないのに、作品としてはどうもいまひとつ素晴らしいと言い切れないのは、すべてを均等に同列で語ろうとする緩急のつけ方の悪さ、それゆえのバランスの悪さ、映画構成上のズレにあるのではなかろうか。しかし、商業娯楽映画としてより効果的な作り方をするということは(非情なカットも覚悟しなければならない)、映画内とはいえ、人の人生に優劣をつけるということでもあり、全員に同じ熱量を注ごうとしている(ように思える)キム・ヨンタクにとっては、それは不実なことなのかもしれない。だからこその、この歪なバランスなのかもしれないと思うと、なんとも憎めない気持ちにもなってくる。それは優しさではない、単なる甘えだと言われるかもしれない。詰め込み過ぎてうまく処理できなかっただけのことかもしれないが、あえて当ブログでは、それは優しさなのだと書きたい。そう書きたい気分にさせてしまう映画なのである。

脚本・監督 キム・ヨンタク/HELLO GHOST/韓国/2010/DVD/