眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

エクスティンクション 地球奪還(吹替) ★★★ 

監督 ベン・ヤング/2018/アメリカ/NETFLIX/

ピーターは、外宇宙生命体の襲撃を受けて街が崩壊していくという悪夢に悩まされていた。仕事場の上司や妻アリスも心配し、病院へ行けというが、絶対まともに扱われないという不安から二の足を踏んでしまうピーター。悪夢として見ているビジョンが、実はこれから起きることを知らせる予知夢ではないのか?という恐れを抱いていたのだ。そしてある日、それは現実となった。

外宇宙生命体の襲来は地球規模のものだろうが、物語自体はピーターの生活圏から一歩も出ないために、大変こじんまりとしたものになっており、スケールは小さい。要所要所に見せ場を用意しているもののご近所が爆破されるといった程度に終始する辺り、一見大作風に見えながら実はそうではないという点で、「スカイライン」を思い出させた。が、そうなるのも当然で、元々、お金のあまりかかる物語ではない。実は見せ場重視の映画ではなく、如何にもSFらしいネタを抱え込んだ、本格的な侵略SFであるというところが眼目。その設定ゆえに、「侵略する側とされる側の位置が逆転するひねり」は鮮やかで素晴らしい。むしろ映画化するために無理して戦闘描写を盛り込んだようにも思える。

映像によるミスディレクションがなかなか巧みなのも良い。例えば、カメラが(ピーターが)我が子二人を見つけて近づくと、そばに二人の親らしき男女が倒れている。が、ピーターの主観のはずなのに、どうしてそこにピーターとアリスらしき者が死体として転がっているのか?といった奇妙な描写も、「悪夢という体で見せられているので、」そういうものとして見てしまう。冷静になればおかしいはずなのに、なかなかに大胆だと思った。ピーターと娘二人が、「血の繋がった父と娘に見えないというところも」、設定にうまく取り込めている。当初はジェームズ・マカヴォイがピーター役に予定されていたらしいのだが、マイケル・ペーニャに変更されたことで、よりSFとしての面白さが鮮明になったと言えるかもしれない。「ずっと子どものままの子どもたち、それを平然と受け入れて(気付かないまま?)暮らす大人や社会。その生活が既に50年以上続いているという、時間を超越する世界の物語であること。支配する側、虐げられる側といったSF的設定の背後には、現実の人種や社会格差による差別が意識されているところにも」目配せが効いており、正しいSF映画という感じである。

これを見て思ったのは、こういうひっくり返し方をするときは、「実はこうでした」だけではダメだということ。その先に「何故なら」が無ければならない。つまらない映画は「何故なら」の理屈が無いケースが多いのではないか。「実は夢でした」という夢オチはがっかりさせられるが、「何故夢だったか」というところまで描くと理屈が生まれ、物語の枠が明確になるということだろう。