眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

SF/ボディ・スナッチャー


宇宙の彼方から襲来した生命体。人が眠っている間に、豆の莢のような物体からコピーされた偽物を生み出す。コピーが覚醒すれば元の人間はズルリと崩壊して消失。あっという間に街は侵略されていく。生き残るための術はあるのだろうか…。

ジャック・フィニイの「盗まれた街」の2度目の映画化。このあとアベルフェラーラオリヴァー・ヒルシュビーゲルによるリメイクがあるとはいえ、肉体ひったくりの恐怖…ごく身近な人たちが次々に見知らぬ人のようになっていく…という映画は、世の中にはもはや無数に存在し、リメイクも何もあったものではないと思うのだが、如何であろう。言わば、ウェルズに断りなくタイムマシンが、ロメロに断りなくゾンビが世界に蔓延したのと同様に、得体のしれない物による肉体強盗映画も、ごくごくありふれた題材となってしまった2015年において、今なら何を思うのだろう?
トム・バーマンによる特殊メイクが素晴らしい。技術的には今と比すれば、見劣りはするものの、さすがに気持ち悪い。ズルリとした感触は「戦慄!呪われた夜」などと同様、湿り気があって不気味。コピーが三つも四つも寝っ転がっている場面は、まさに悪夢。

影を強調した画面作りも良かった。迫りくる恐怖と、そこから逃げる緊迫感を影で表現。

ドナルド・サザーランドブルック・アダムスの恋愛ドラマであることも見逃せない。映画としての主眼は、そこには全く置かれていないので、二人の関係がいまひとつはっきりしない感じもあるが、描いていなければ存在しないわけではない。小説の行間を読む、ということが成立するのなら、映画にだって成立するはずだ。食事する場面を始め、二人でいる場面の親密さがよく伝わり、それだけに目の前で相手を失う瞬間の絶望感たるや。しかもそのすぐそばから、何事もなかったかのように、コピーがスッ、と立ち上がる不気味さ。ラストシーンのあと、エンドクレジットには音楽もなし。この断絶したような終わり方も、この作品には相応しい。

知らぬ間に、知人が別人になっている。これは何も共産主義者だけがそうなるわけではない。カルトにはまってしまってもそうなるし、友人や恋人や結婚相手によってもそうなることもある。身近な人の変異というこの物語が恐ろしいのは、おそらく誰もが、その不安を想像出来ることにある。そんな人間をみたことがある、あるいはきいたことがある、多かれ少なかれ、見聞きすることがあるのではないか。謎の生命体による侵略というSFが、非常にごく身近な出来事に置き換えられる。「エイリアン」では、恐怖の対象はエイリアンそのものだったのに対して、こちらは生命体を通して、人間そのものへと向かっている。侵略SFという形の向こう側に、それが感じ取れるために恐ろしい。

外部からのちょっとした影響で、人は簡単に変わるのである。もろい。その弱さゆえに、人は、いい意味でも悪い意味でも、変化してしまう。その影響が自分だけの話として完結しているのならばまだしも、それを他人に行使、強制するようになったらどうだろう。我々は彼らを脅威と感じる。だがその数が、圧倒的に増えてしまったらどうなるだろう。脅威の側が大勢を占めるようになったとき、そこに待つ未来はどんなものになるのだろうか。例えば、ナチス政権下で何があったのか、忘れた人間はいまい。

乗っ取られた人間は(人間ではないが)、「(コピーされても)痛みも何もない。何も変わらない。欲望はなくなり、平穏な社会がやってくるだけだ…」(大意)という。それを信じていいのだろうか?確かにそういう一面もあるかもしれない。だが本当にそれでいいのか?人類補完計画は本当に正しい道だったか?もっと卑近な例え話にすれば、「合併したからといって特に何も変わりません」などという言葉を信じられるかどうか、だ。支配する側は、甘言を自在に操り、問題は一切ない、という風を装って近づいてくる。問題は確かにないのだ。彼らの側には。しかし乗っ取られる側はどうか…。そして重要なのは、そこに引き込まれてしまったら、もうあっち側の言うことに従うしかなくなる。人はそれを受け入れてしまうのだ。今までは嫌だと思っていたことも、スイッチを切り替えたように平然とこなす、別の存在になってしまうのだ…。

ご存じのようにオリジナル版は1956年の作品で、当時吹き荒れた赤狩りの影響濃いものとして知られる。主としてソビエトを相手とした社会主義、共産圏に対する不安と嫌悪から発生した赤狩りは、SF映画の形を借りて暗喩として描かれたケースも多い。能面の如く、何の感情も持たずに行動する人々、というのは当時の共産圏に対する漠としたイメージのひとつで、莢をもって黙々と侵略活動をするコピーたちにはそのイメージが重ねられている。リメイク版は1978年の映画だが、赤狩りからはだいぶ年月が経っているとはいえ、まだ冷戦の時代であった。ここにもやはり、共産主義に対する不信は込められていたのだろうが…。今回見返して思ったのは、共産主義に対する恐怖だけではないな、というものだった。頭のいい人たちは、そっちこそが重要である、みたいな物の言い方をするかもしれないが、そうじゃない。人間そのものへの恐怖、不信、これがテーマとして重いのだな、と。

という具合に、昔みたとき以上に、戦慄しながら見ることになってしまった。そうか、集団化する人間と、そうなったときの脅威、恐怖についての物語だったのだな、と。現在の世界的な状況を重ね合わせると、今みるに相応しい映画のようにも思える。

INVASION OF THE BODY SNATCHERS/1978米/監督 フィリップ・カウフマン