眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「暗闇にベルが鳴る」(1974) 感想

クリスマスの夜。大学の女子寮ではパーティーの真っ最中。そこにかかってくる一本の電話。それは変質者からの卑猥ないたずら電話で、ここ最近頻繁にかかってくるものであった。そしてその夜、変質者は壁を伝って屋根裏に侵入。女子学生たちを手にかけていく…。
以下、当然ネタばれ。

次第に、ぶわぶわとふくらんでいく悪意と恐怖。犯人の素性に全くタッチしない突き放した描き方には、因果も理屈も関係のない、暴力的な理不尽さがある。不快で不可解な状況に包まれていく絶望感は、暗闇の中で静かに降り積もる雪のように、じわじわと人々の心に沁み込んで行く。

脚本はロイ・ムーアという人
他には「ラスト・カーチェイス」の脚本も書いているようだ。そうか、ディストピアものでありながら、奇妙にさわやかなあの映画の…。しかし他には、とりあえず日本公開作にはないみたい。この2作しか残していないのだとしたら、なんとも勿体ない話しである。

ロイ・ムーア、かなり苦心して物語を組み立てているのではないかと推察される。そもそも、60年代くらいからあったという、都市伝説を基にしているのだが(The Babysitter and the Man Upstairs、という話しらしい。これは後に「夕暮れにベルが鳴る」の序盤でまんま映像化される)、それ自体は恐ろしい話ではあっても、小話といった程度のものである。それを長編化するには、色々とネタを付け足していかなければ持たない。そのために、ミスリーディング的な役割として、オリビア・ハッセーの恋人、キア・デュリアが怪しい人物として用意されている。堕胎に対して、かなり執拗に反対する様子と、変質者のこだわっている事柄がリンクするようにみせているのも、見事な誘いだろう。

犯人が寮内にいるのは、観客には判っていること
冷静に考えてみると、ちょっとおかしいのである。電話を逆探知して突きとめると、その女子寮内からかけられていた!という衝撃は、劇中の人間にはショックであっても観客にとっては、本当は判りきったことのはずなのだ。ところが、それは観客の側にも、ちょっとしたショックを与える。

そのためにロイ・ムーアが施したのは、外部で女子中学生が行方不明になるという話しを盛り込むということ。女子寮内の殺人は、クライマックス付近まで一切死体が、第三者には発見されないままだが、女子中学生は捜索の結果、遺体が発見される。そのため、警察の捜査は外側を向いたまま。犯人かどうか判然としないキア・デュリアも外にいる描写がなされるので、観客の意識もついつい外側に向けられる。犯人が電話をどこからかけているのか?ということと、実は寮内にいるということはイコールなのに、このキーポイントを、話しを寮外で動かすことで巧妙に分断している。最初っからネタが割れているものを、飽きさせずバカバカしいと思わせずに組み立てるのは骨が折れたのではないだろうか。

警察がどうして寮内を調べないのか、という意見もみることがあるのだが、最初に犠牲になるクレアは失踪したとなっているだけで、死体はみつかっていない。その段階で屋根裏まで調べるだろうか。犯人がどこにいるのかは、誰も知らない。外にいると思いこんでいても仕方ない、むしろ当然と思うんだが…。これは、犯行を見せてしまったことで、観客だけが知っている情報だ。状況を、劇中の人間よりも先に知ってしまっている。そのズレによって、警察の捜査の不備のように思えるのではなかろうか。

それならば、犯人が寮内にいることを隠して描けばよかったのだ、と思うかもしれないが、そうなると殺人シーンは描けなくなる。犯人視点による不気味なカメラワークも使えない。何の手がかりもないまま、消えた友人の行方を心配するだけの映画になりはしないか。犯人との電話のやりとりだけを、物語の中心におくしかなくなってしまうのではないだろうか。それで90分持たせられるか?ということである。それに誰もが知っていたであろう都市伝説を映画にするのに、犯人がどこにいるかを今更隠して描くなんて、そんな選択は最初からないはずで、そういうことを考えたときに、ロイ・ムーアの踏ん張り方を称賛したくなるのである。
追記:…↑と思っていたが、ムーアはモントリオールで実際にあった事件をモデルに、脚本を書いたとも言われているようだ。その事件が都市伝説となって語られるようになったのだろうか。

犯人をサイコキラーとして描いた、ということの意味の大きさ
巧みに声色を変えたりするのは、多重人格的なものを窺わせるし、非道なことをしておきながら「助けてくれ」と言ったりするあたりも、実在のサイコキラーにあった症例だろう。都市伝説だけでは、どこか子供っぽいような物語が、理不尽すぎるがしかし現実に存在する、ある種の人間の生々しさを持ちこんだことで、恐怖が他人事では無くなって行く感覚がある。この映画の作劇の巧みさは、そこにもあるのではないかと思う次第である。

さりげないような、あからさまなような、恐ろしい場面
リビアアンドレア・マーティンが深夜にふたりで居間にいる場面。警察のジョン・サクソンと電話で話していると、画面の奥で影が動いている。ゆらりゆらり、と。そのとき寮にいるのは、二人以外にマーゴット・キッダーと犯人。マーゴは寝ている。とすればその影の正体は…。が、ここでは殺戮は行われない。二人同時に殺すのは無理があると思ったのだろうか。電話の相手が警察と判ったからだろうか。影は闇に埋没していく。

他の見どころとしては、無能すぎるナッシュ巡査。演じるはダグラス・マッグラスという俳優さんだが、この仕事の出来なさぶりが凄い。ダメ押しでダメなことをしてしまう。クライマックスで弾みをつけるためのフリとして、ダメな人として描かれている。ちょっと酷い気もするが、事なかれ、お役所仕事の典型みたいな描き方。しかも本人はそれを気にしているような風でもあるので、ちょっと痛々しい感じもある。あるいは、寮の至るところに酒瓶を隠している寮母。歯磨きのうがいもウィスキーでやる。どんだけ酒好き?と思うほどだが、妙なおかしみがある。さらに捜索隊のボランティアみたいな二人組。オリビアアンドレアも、緊迫した状況下なのにこの二人組とのやりとりで笑ってしまうのだが、みていて、実際笑ってしまった。ここは明らかに狙っているんだろうと思うのだが、先の二人もそうだけれども、警察署内のもう一人の刑事もやたらくすくす笑っていたりして、ボブ・クラーク独特なのかなんなのか、というようなユーモアめいたものがあるのも不思議。これで笑え、というのだろうか。陰惨な話しの中の息抜きと思っていたら、完全に間違えているが…。


↑パンフレット。昔は古本屋でみかけたな。買っておけばよかった。

イマジカBSでのHD放送を録画してみたのだが、画質は恐ろしく悪かった。フィルムの状態が悪いのかもしれず、ちゃんとリマスターしたものがないのかもしれず。まるでアナログ放送時のような粗い画質だったが、ホラー映画はそれくらいの方が味があったりもするから、これはこれでよい、と思ってしまう。もしかしたら、そのうちピカピカの素材が見つかるかもしれないし。ブルーレイもレビューをみる限り同様の画質のようだが、でも特典映像もあるし、吹替もついてるようだ。


BLACK CHRISTMAS/監督 ボブ・クラーク/1974(カナダ)