眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

江戸城大乱 感想

病弱な四代将軍家綱の跡目を継がせるために、酒井忠清(松方弘樹)は、家光の三男・綱重を選ぶ。が江戸への道中、一行は何者かの罠にはめられ、綱重は絶命してしまう。桂昌院(十朱幸代)は、綱重を守れず苦悩する堀田正俊(三浦友和)の協力を得て我が子・綱吉(坂上忍)を将軍につけようと尽力するのだが…。

実在の人物が登場してきて、将軍の跡目を争うかけひきが展開するとなれば、史実を忠実に再現しているとか、これは違うとか、あれこれ言いながら見るのが時代劇ファンにとっては愉しみの一つなのだろう。が、こちとら日本史に疎く、感想を書くにあたって、ウィキペディアなどで確認しながら、なるほどそういうことなのか、などと感心しているくらいであるから、そこまでの愉しみ方は出来ず。

江戸城に登城してきた酒井忠清の登場シーン。籠を降りて門をくぐるときに、松方弘樹は、右手を広げて前に突き出すという独特のポーズで決めてみせる。そのあと、これみよがしに扇子を広げて仰ぎながら、廊下を進む姿。今にも「ヨッシャヨッシャ」と聞こえて来そう。おそらく劇場公開時から言われていたと思うのだが、明らかに田中角栄の物真似が入っている。これはどういう役作りなのか、と半笑いでみていると、中盤になって、ああこれか、と思われる場面になる。綱重は、我が子を将軍にしようと画策する徳川光友(金子信雄)の策略によって殺されたのだ。その先兵となって汚れ役を担うのは、志母沢織部正(西岡徳馬)。織部正は、金一千万両で、将軍の座を買う、と忠清に言い出す。つまり、賄賂。田中角栄は、ここにはまってくるのだった。それでか!と、思わず、今度は本当に笑ってしまった。

しかし、一千万両の小判を、金五分、銀五分で鋳造しなおし、半分を蓄え半分を江戸城天守閣の再建のために使うとしながらも、この話しはそれ以上広がらないのである。それなのに、冒頭部の角栄の物真似による失笑は、犠牲が大きいのではないかと思った。というところからも思うのだが、映画全体のバランスが悪い。酒井忠清堀田正俊のふたりを中心とした集団劇としたために、かなり風呂敷を広げることになってしまい、その割にはごくごく平凡なドラマに終始してしまっている。ドラマが向かう先をどこにするか、クライマックスをどこに置くかというポイントが、ずれている気がしてならない。山はいくつもあるのに、どれもが微妙な位置に置かれている感じというか。

一番惜しい点は、忠清が何を考えているか、ということをうまく描き切れなかったところにある。明暦の大火で江戸は焼け野原となり、江戸城天守閣も焼けおちてしまった。彼には、その江戸を再生させたという矜持がある。天守閣に対する並々ならぬ思いもある。江戸を愛する思いがゆえに、目的のためには手段を選ばずという非情な人間にもなる(そのため、堀田正俊は命をかけて闘いながら、あっさりと裏切られるはめになる)。この辺りの、望む夢とそれを阻む現実に苛まれる男の心情に、あまり共感出来るようにはなっていない。本当なら、悲劇のヒーローならぬ、悲劇の大老(ダジャレすまぬ)という、多分にヒロイックな人物になったと思うのだが…。

とはいえ、細かい見せ場はいろいろと用意してあり、退屈しないように作られているのは、娯楽時代劇としての底力とでも言おうか。「十三人の刺客」再び、のような綱重襲撃の場面、織部正と堀田正俊の一騎打ち、家綱の遺言状をめぐる攻防。そして、江戸城へ向かう綱吉一行を、目羅源蔵(平泉成)らが襲撃する最大の見せ場。火薬を仕掛けられた橋を、そうとは知らずに渡っている途中での大爆破。人馬もろともの落下は凄まじい(ま、この前にも、89年に「将軍家光の乱心 激突」でもやっているのだが)。そのあとの水上での戦いは、「十兵衛暗殺剣」の湖賊との戦いを思い出した。水に浮かぶ橋の残骸の上という足場の悪さ、そこで三浦友和が懸命に立ち回りをしているのも素晴らしい。ドラマとしての締めは、さらにそのあとにあるのだが、松方弘樹はさぞや気持ち良かったろうな、と思わせる大芝居ぶり。それを失笑するかどうかは人それぞれだが、出来ればそういう臭み、癖も、愉しみたいところだ。

さらに細かい見所。坂上忍演じる綱吉の、現代的過ぎて全く侍っぽさの欠片もない芝居(コントのようにしかみえない)、現場では絶対照れたであろう、赤ふんどし姿。その綱吉が、将軍になどならないと宣言する場での、丹波哲郎演じる水戸光圀の嬉しそうな表情。さすがの貫録、余裕綽々。森永奈緒美が、ほんの少しだけ出演していること。などなど。

堀田正俊の義理の父は、稲葉正則。演じているのは、この7月31日に、86歳で亡くなった加藤武。義理の息子の出世に喜び、失脚すると一転して切腹せよと怒り、詰る。一本気なところのある、如何にも侍らしい侍。正則は、家綱の妾、側女、なんというのかわからないが、お付きのおゆいから将軍直筆の遺言状を手渡される。しかし彼は、忠清の進める後継者選びに不信感を抱いてしまい、書状を忠清に渡さない。焦る忠清は、大久保忠朝(演:江原真二郎)に命じて、正則を討てという。この場面の緊迫感あふれるやりとりは、ひとえに加藤武の真正面からの芝居と、横から入る江原真二郎の素晴らしさゆえだろう。特に加藤武の、こうと思ったら決して曲げない、武士のありようを感じさせる芝居は、熱演といってよい。加藤武にとっては余技のようなものかもしれないが、劇中、一番緊張感が高まる瞬間だった。亡くなってから、ちょっと間があいてしまったし、出番はそれほど多いとも言えないが、熱のこもった力演は、追悼放送に相応しい。どうぞ、やすらかにお眠りください。

製作にフジテレビが噛んでいることと関係があるのかないのか、それとも時代の変化によるものなのか、画面がどうにもテレビ風にみえてしまうのも辛いところである。画面の色味の問題なのだろうか。江戸城内のセットなどはかなりしっかり作られているが、どうにも軽く見えてしまう。勿体ない。とはいえ、変にまじめな時代劇映画が増えた現在からすれば、このようなストレートな娯楽時代劇が作られていたのは幸福な時代だった、と言ってもよい気がする。のんびりと愉しみたい映画である。

しかし、テレビの時代劇も、コンスタントに製作しているのは今やNHKだけになってしまった。民放では、BSジャパンが「松本清張ミステリー時代劇」を放送しているくらい。恐ろしいほどに時代劇は消えてしまった。失ってしまったあとで後悔しても、遅すぎるんだけどなあ。視聴率とかスポンサーとかを気にして、ドラマのジャンルを潰してしまう。なんとも罪深いことよ。おそらく時代劇をみているのは、今の60代が限界だろう。このまま行けば、この世代がいなくなったとき、日本のテレビから時代劇は完全に消える。江戸しぐさみたいな嘘っぱちをありがたがり、時代劇はテレビも映画も、古臭いだの何だの言って、扱わない。まあ、もうそれでいいんだろうけれど。世代の違いは、文化の断絶を生むんだね。とまとめてもいいけど、実際は、お金にならないから、という理由だから腹立たしいんだよな。

監督 舛田利雄/東映フジテレビジョン/1991/BSプレミアム 15.9.3.(木)