眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「劇場霊からの招待状」第6話〜「廃墟」 感想

〈あらすじ〉忍(中野郁海)とその両親と共に、遊びに出掛けた舞(小栗有以)。車の故障で立ち往生し、なんとか歩いて辿り着いた場所は、病院か学校かと思われる大きな施設。しかし人の気配はない。舞は、母親に捨てられて一人で暮らしていた少女の話を、忍にする。話相手がいないので、鏡を相手に喋っているうちに、顔が恐ろしく変わってしまい、それを隠すために包帯を巻いている「包帯女」の話しを…。

以下、ネタばれ前提での感想を書いています。

どうして鏡を相手に話していると、顔が恐ろしいものになっていったのだろうか。どういう理屈なのかが良く判らない。顔を隠すために包帯を巻く、という恐ろしげな装いをした女を作るために、無理矢理話しを作っている感じがする。その無理矢理な話が、現実に出てくる、という恐怖を狙ったのだろうか。包帯女が、姿見から出現したかのようにみえる描写もあり、どうやら現実世界の怪しげな人ではなくて、アナザーワールドの住人のようなのだが、その変も曖昧にしてある。包帯女は、口裂け女を思い出させる。特にこれ。

巨大な施設の、誰もいないという不気味さは、さすがに現実感がある。実際に今は利用されていないところなのかもしれないと思わせる不穏な気配。がらんとした空間が恐ろしい。面白かったのは、後半でPOV描写になるところ。POVは、どうしてカメラでずっと撮っているのか、という無理が生じがち。ここでは、真っ暗になって何も見えず、カメラをライトの代わりに使うという単純ながらも納得の理由で、うまく処理している。あと、ごく短い時間での使用ということもうまい。この手法で90分は難しいから。

忍の母を演じる八木さおりが、不穏な空気に反応し、不用意な行動を取る娘たちを怒り、声を荒げると、一気に緊張感が高まっていく。主役たる娘たちがどんなにおびえても、何も感じられない。これはまずいのかもしれないという恐ろしさは、八木さおりの演技ひとつによって作られているといってもいい。第1話「埋葬」における飛鳥凛しかり、第3話「偶像」における森田望智しかり。恐ろしいポイントは、どれも俳優たちの演技にかかっている。結局、ドラマにおける恐怖というのは、ネタそのものや、凝った撮影や演出よりも、俳優の演技力という人力に勝るものなし、という気にもさせられた。SFやホラーというジャンルは、どうしても絵空事ゆえ、それだけに俳優の演技が如何に重要かということである。特に、ホラーなどは低予算で簡単に作られがちな印象があるが、だからこそしっかりした演技がないと底を支えられないものなんだと、当たり前のことを久々に感じた。

そして八木さおり。なんもかんもが懐かし過ぎるが。